甲斐国の地誌類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 05:25 UTC 版)
江戸時代には甲州街道など街道整備によって人の往来が盛んになり、多くの文人が来訪した。また識字率の向上により近世前期・中期には武士、富裕な町人・地主層を中心に、近世後期には寺子屋・私塾・郷学の普及で庶民に至るまで読み書きの能力が普及し、さらに紙の大量生産が可能となったため地域の記録や伝承が地誌や日記、紀行文や随筆として書かれて流通した。 甲斐国においても甲斐国志に先行する地誌類として『甲斐覚書』や荻生徂徠『峡中日記』、『甲州噺』などが存在し、天明2年(1782年)には萩原元克により甲斐国地誌『甲斐名勝志』が著されている。また、将軍吉宗のころには国内記録の散逸が危惧されていたため、寺社奉行配下の青木昆陽による甲州の古文書調査が行われた(『諸州古文書』)。 甲斐国志の編纂された19世紀初頭は全国的に飢饉やそれに伴う一揆、打ちこわしが激化し、また異国船の来航など内政・外交両面で社会不安が顕在化していた時期であった。幕政では老中・松平定信が主導した寛政の改革において文教政策が新興され、各地で地誌類の編纂等が行われた。 幕府は寛政の改革における文教政策振興に基き、享和3年(1803年)に昌平坂学問所に地誌編纂事業の専門部局である地誌調所を設置し、諸藩や諸役所に対し地誌編纂の内命を下した。これにより『甲斐国志』のほか『新編武蔵風土記稿』などの地誌が編纂されている。 地誌調所では中国方志(地誌)の形式に拠らない漢字かな交じりの文体で、絵図などの図版を多用した「日本型地誌」の編纂を方針とし、最終的には編纂された諸国の地誌を素材に「日本総志」を編纂することを目的としていたという。
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