甲斐国の飯富氏
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戦国時代には甲斐武田氏の家臣として飯富氏が登場する。甲斐守護・武田信虎の家臣に飯富道悦がおり、『勝山記』によれば永正12年(1519年)10月17日に信虎が西郡の国人・大井信達を攻めた際に子息とみられる「源四郎」とともに戦死したという。飯富源四郎は信虎・晴信(信玄)期の譜代家老である飯富虎昌・山県昌景の父親にあたると考えられている。 飯富虎昌は栗原氏ら甲斐の有力国人今井氏とともに武田信虎に対向したが、享禄4年(1531年)の合戦で敗退し、信虎に服従した。虎昌は武田氏に臣従し信虎・晴信(信玄)期の譜代家老衆となり、信濃侵攻・川中島の戦いで活躍する。また、虎昌は晴信の嫡男である義信の傅役を務める。虎昌は永禄8年(1565年)10月に武田家中における義信事件に連座して切腹している(高野山成慶院『甲斐国供養帳』)。 虎昌の弟である山県昌景は山県氏の名蹟を継ぎ、信玄・勝頼期の譜代家老として存在している。虎昌の子息とされる人物に飯富稲蔵がおり、『高白斎記』によれば天文20年(1551年)11月22日に村上義清方の坂木番手衆の東条某を討ち取ったという。永禄2年(1559年)の相模国後北条氏の分限帳『小田原衆所領役帳』には他国衆として武田家臣である小山田氏や向山氏とともに「飯富左京亮」の名が記されている。飯富左京亮は稲蔵の後身であると考えられており、後北条氏との取次を務めていることが確認される。 その他の飯富一族は義信事件を契機に史料上からは見られない。
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