甲斐国志の編纂過程
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都留郡に関しては森嶋基進が主任を務め、森嶋家の私塾である朋来園が編纂所となり、塾生らが編纂員として参加している。文化3年(1806年)には史料調査項目が策定され、村々の名主や長百姓に通達され朱印状や諸系図、寺社の縁起、名所・古跡、伝承などが調査され、村々の村明細帳や絵図類、社寺の由緒書など古文書の借覧も行われている。『編脩地誌備用典籍解題』(後述)に拠れば『甲斐国志』は現存する古物は現地を訪問して直接調査して編纂したと言われ、今日の文化財所蔵調査に近いことが行われていたと考えられている。 文化4年(1807年)8月には定能が西丸御小性組番頭に転身したため、国中三郡に関しては西花輪村の内藤清右衛門宅に編纂所を移転して事業が継続される。定能の江戸赴任のため草稿を甲斐・江戸間で郵送する手間が発生したため編纂は遅延するが、大学頭・林述斎が編纂を急がせたため、加速されている。 文化11年(1814年)11月に完成し、定能の序文を加え首巻に本文118巻、附録5巻の124巻にまとめられる。翌月には71巻に装幀されて幕府に献進され、将軍家斉の上覧の後に昌平坂学問所へ賦与された。
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