甲斐国志の編集・執筆方針とは? わかりやすく解説

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甲斐国志の編集・執筆方針

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 05:25 UTC 版)

甲斐国志」の記事における「甲斐国志の編集・執筆方針」の解説

甲斐国志幕府献上され官撰書物ありつつも私撰体裁取り疑わしき旧説臆説排し根拠に基き記述態度真摯であることが指摘される例えば、巻二・国法之部で著述され甲州金に関してはその起源不詳とし、金座役人松木家文書などを示しつつ甲州金について考察し甲斐古文書調査行った幕臣儒学者青木昆陽の『甲州略記』や『昆陽漫録』などの著作引用しつつも、『甲斐国志編纂調査に基きその誤り指摘している。また、四十四古跡部で著述される「忘川」については同名の河川見られず、荒川比定する説と御勅使川比定する説があるが、『甲斐国志』では『峡中紀行』において荒川説を取っている幕臣儒学者荻生徂徠見解に対して異論記している。 一方で武田家に関する記述は『甲陽軍鑑』に依拠し一部には『甲陽軍鑑』の誤り踏襲している記述見られるまた、古跡部では諸所学説批判的著述であるのに対し仏寺部では寺社縁起に関して伝承化した逸話記しており、資料限界とも評されている。 甲府藩主・柳沢氏に至る近世初期甲斐領主に対して淡々と昇進に関する記述記されている。武田信玄柳沢吉保に対して敬称用いられないのに対し徳川将軍家に対して敬称用いており、徳川家康は「神君」と呼称し、歴代将軍法号呼称されている。なお、歴代天皇に対して闕字(けつじ、敬意を示す意味で文中数字分の余白開けること)が用いられている。 また、徳川家対す批判的な記述一切見られないが、徳川忠長に対しては「発狂」と記されている。甲府城に関する記述少なく明和事件処罰され国学者山県大弐に関する記述少ない点が指摘される時代区分に関して天正10年干支で「壬午」(じんご)、1582年)が区切りとなっていることが指摘される同年3月には織田信長徳川家康連合軍武田侵攻により武田家滅亡し、さらに同年6月2日本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱発生する甲斐徳川家康により確保され武田遺臣多く家康臣従し、同年8月21日には家康対し天正壬午起請文」を提出している。こうした歴史的経緯と、徳川将軍家に対して敬意を示す『甲斐国志』の執筆姿勢から天正10年大きな区切り意識していたと考えられている。 々の人口現存していない文書書写など貴重な情報記しているため現代に至るまで広く引用される史料として権威持ち同時代でも黒川春村並山日記』や徽典館学頭引用例がある。

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