甲斐国衆との戦いとは? わかりやすく解説

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甲斐国衆との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:53 UTC 版)

武田信虎」の記事における「甲斐国衆との戦い」の解説

信恵の滅亡後に、小山田弥太郎国中侵攻行い敗死する(坊峰合戦)。都留郡では工藤氏小山田一門・境小山田氏小山田平三伊勢氏後北条氏)のもとへ亡命する永正6年1509年秋に信虎都留郡侵攻し、翌永正7年1510年春に小山田氏従属させる。『勝山記によれば信虎弥太郎の子小山田信有越中守信有)に実妹を嫁がせている。また、都留郡へ近い勝沼甲州市勝沼町)には実弟勝沼信友配したこの頃には甲斐北西部においても戦乱信濃国諏訪郡諏訪氏侵攻起こり、『高白斎記によれば永正6年10月には今井氏逸見氏)の本拠である江城が小尾弥十郎により攻略された。また、一蓮寺過去帳によれば同年12月には現在の北杜市須玉町若神子の「テウガ城(丁衙城か)」における合戦諏訪頼満碧雲斎)による攻勢により今井信是の弟である平三武田平三)とその侍者である源三谷戸源三)が戦死したという。 『勝山記によれば永正10年1513年5月27日には甲斐国河内領の穴山氏当主穴山信懸子息清五郎により殺害される事件発生する。『隠録』によれば信懸の息女信虎本拠である川田館(甲府市川田町近く居住しており、信虎友好な関係を築く一方で今川氏親伊勢宗瑞とも関係の深い両属の立場にあり、信懸の暗殺背景には穴山氏家中における帰属を巡る対立があったとも考えられている。穴山氏当主となった信綱(信風)は今川氏帰属し永正12年1515年)には今川氏甲斐へ侵攻する。 『勝山記』『一蓮寺過去帳』『宗長手記によれば、さらに西郡国衆である大井信達・信業親子今川方に帰属し同年10月17日信虎小山田信有とともに大井氏本拠である富田城南アルプス市戸田)を攻めるが敗退し小山田大和守・飯富道悦飯富源四郎らが戦死した。この合戦の際にも今川氏介入する姿勢示し、甲駿国境封鎖している。『王代記』『高白斎記によれば永正13年1516年9月28日今川勢は甲斐侵攻行い信虎本拠川田館に近い万力において敗退し今川勢は中道往還沿いの勝山城甲府市上曽根町)を占拠すると、各地放火した。 『勝山記によれば都留郡においても同年12月吉田山城(富士吉田市)を拠点とした今川勢と郡内衆が戦い永正14年1517年1月12日吉田山城が陥落すると、郡内衆と今川氏の間で和睦成立したこの頃今川氏遠江国において大河内貞綱斯波義達引間城攻め行っていたため今川氏親信虎との和睦転じ、『勝山記』『宗長手記』『宇津山記によれば武田今川間は連歌師宗長仲介し3月2日和睦成立し今川氏甲斐から退去した。なお、永正15年小山田氏今川氏の間でも和睦成立している。 1520年永正17年)に信虎大井氏とも和睦し信達の娘(大井夫人)を正室迎える。

※この「甲斐国衆との戦い」の解説は、「武田信虎」の解説の一部です。
「甲斐国衆との戦い」を含む「武田信虎」の記事については、「武田信虎」の概要を参照ください。

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