甲斐国衆との戦い
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信恵の滅亡後に、小山田弥太郎は国中侵攻を行い敗死する(坊峰合戦)。都留郡では工藤氏や小山田一門・境小山田氏の小山田平三が伊勢氏(後北条氏)のもとへ亡命する。永正6年(1509年)秋に信虎は都留郡へ侵攻し、翌永正7年(1510年)春には小山田氏を従属させる。『勝山記』によれば、信虎は弥太郎の子・小山田信有(越中守信有)に実妹を嫁がせている。また、都留郡へ近い勝沼(甲州市勝沼町)には実弟・勝沼信友を配した。 この頃には甲斐北西部においても戦乱や信濃国諏訪郡の諏訪氏の侵攻が起こり、『高白斎記』によれば、永正6年10月には今井氏(逸見氏)の本拠である江草城が小尾弥十郎により攻略された。また、『一蓮寺過去帳』によれば、同年12月には現在の北杜市須玉町若神子の「テウガ城(丁衙城か)」における合戦で諏訪頼満(碧雲斎)による攻勢により今井信是の弟である平三(武田平三)とその侍者である源三(谷戸源三)が戦死したという。 『勝山記』によれば、永正10年(1513年)5月27日には甲斐国河内領の穴山氏当主・穴山信懸が子息の清五郎により殺害される事件が発生する。『菊隠録』によれば信懸の息女は信虎の本拠である川田館(甲府市川田町)近くに居住しており、信虎と友好な関係を築く一方で、今川氏親や伊勢宗瑞とも関係の深い両属の立場にあり、信懸の暗殺の背景には穴山氏家中における帰属を巡る対立があったとも考えられている。穴山氏当主となった信綱(信風)は今川氏に帰属し、永正12年(1515年)には今川氏は甲斐へ侵攻する。 『勝山記』『一蓮寺過去帳』『宗長手記』によれば、さらに西郡の国衆である大井信達・信業親子も今川方に帰属し、同年10月17日に信虎は小山田信有とともに大井氏の本拠である富田城(南アルプス市戸田)を攻めるが敗退し、小山田大和守・飯富道悦・飯富源四郎らが戦死した。この合戦の際にも今川氏が介入する姿勢を示し、甲駿国境を封鎖している。『王代記』『高白斎記』によれば、永正13年(1516年)9月28日に今川勢は甲斐侵攻を行い、信虎は本拠の川田館に近い万力において敗退し、今川勢は中道往還沿いの勝山城(甲府市上曽根町)を占拠すると、各地を放火した。 『勝山記』によれば、都留郡においても同年12月に吉田山城(富士吉田市)を拠点とした今川勢と郡内衆が戦い、永正14年(1517年)1月12日に吉田山城が陥落すると、郡内衆と今川氏の間で和睦が成立した。この頃、今川氏は遠江国において大河内貞綱・斯波義達が引間城攻めを行っていたため今川氏親は信虎との和睦に転じ、『勝山記』『宗長手記』『宇津山記』によれば、武田・今川間は連歌師の宗長が仲介し3月2日に和睦が成立し、今川氏は甲斐から退去した。なお、永正15年は小山田氏と今川氏の間でも和睦が成立している。 1520年(永正17年)に信虎は大井氏とも和睦し、信達の娘(大井夫人)を正室に迎える。
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