甲斐国拝領から綱吉の死去とは? わかりやすく解説

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甲斐国拝領から綱吉の死去

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)

柳沢吉保」の記事における「甲斐国拝領から綱吉の死去」の解説

宝永元年1704年12月21日綱吉後継甲府徳川家綱豊が決まると、綱豊後任として甲斐国甲府城駿河国内に所領与えられ151200石の大名となる。翌宝永2年1705年1月15日には国替際した家中禁令改定している。同年2月19日甲府城受け取り家臣柳沢保格・平岡資因らが務めている。3月12日駿河所領返上し甲斐国国中地方3郡(巨摩郡山梨郡八代郡)を与えられる。吉保が拝領した15万石余の石高表高であり、実際に内高合わせて22万石余を有していた。 同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌法要行なっている。吉保はこの法要において自身武田氏連なる一族であることを強調している。 同年4月29日6月12日には国中三郡の領知朱印状領地目録受け取っている。5月3日には甲斐国内の所持者に祈祷領米を寄付している。 同年5月11日には側室飯塚染子死去し龍興寺葬られた。染子は多く和歌残しており、吉保は染子没後に『染子歌集』を編纂している。 5月13日には黄檗宗寺院萬福寺京都府宇治市)の悦峯道章禅問答行っている。吉保は7月9日甲斐国内への菩提寺建立発意し、8月21日には岩窪村甲府市岩窪町)に境内地定めた8月13日に吉保は自身参禅録を編纂し、これを霊元上皇に対して題を出願している。これに対して9月23日霊元上皇は吉保に「護法常王録」の題を授けた。 吉保は大老格の要職にあったため江戸離れて甲斐訪れことはなかったが、甲府配置した家老薮田重守指示し甲府城城下町の整備検地実施井堰用水路)の整備甲州金一種である新甲金鋳造などを行っている。また、柳沢時代年貢割付状では柳沢氏入国前に行われた検地増分減免し実質的な減税行っていた。 吉保側室正親町町子がいる。町子出自諸説あるが、実父正親町公通で、母は水無瀬氏信娘とする説がある。正親町公通霊元天皇使者として江戸を度々訪れており、霊元天皇は吉保の和歌添削行い六義園十二境を定めたことや参禅録に題を授けるなど和歌文芸面において吉保へ影響及ぼしている。また、この場合町子の母となる水無瀬氏信娘は新上西門院房子鷹司房子)の侍女で「常磐井」を称し房子伯母にあたる鷹司信子将軍綱吉御台所になると、常磐井は「右衛門佐局」と改名し信子従い下向し、江戸城大奥取締役となっている。ちなみに右衛門佐局実兄町尻兼量の娘・量子は、近衛家煕側室となって中御門天皇女御近衛尚子生んでいる。正親町町子も、こうした両親の縁により江戸へ下向し、吉保の側室になった考えられている。町子は後に吉保の半生王朝風の日記文学として記した松蔭日記』を記している。 元禄15年1702年)に将軍綱吉生母桂昌院朝廷から従一位叙されたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった[要出典]。宝永2年1705年)、家門列する宝永3年1706年1月11日には大老格に上り詰めた

※この「甲斐国拝領から綱吉の死去」の解説は、「柳沢吉保」の解説の一部です。
「甲斐国拝領から綱吉の死去」を含む「柳沢吉保」の記事については、「柳沢吉保」の概要を参照ください。

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