甲斐国拝領から綱吉の死去
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「柳沢吉保」の記事における「甲斐国拝領から綱吉の死去」の解説
翌宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる。翌宝永2年(1705年)1月15日には国替に際した家中禁令を改定している。同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中地方3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる。吉保が拝領した15万石余の石高は表高であり、実際には内高を合わせて22万石余を有していた。 同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている。吉保はこの法要において自身が武田氏に連なる一族であることを強調している。 同年4月29日と6月12日には国中三郡の領知朱印状・領地目録を受け取っている。5月3日には甲斐国内の所持者に祈祷領米を寄付している。 同年5月11日には側室の飯塚染子が死去し、龍興寺に葬られた。染子は多くの和歌を残しており、吉保は染子没後に『染子歌集』を編纂している。 5月13日には黄檗宗寺院の萬福寺(京都府宇治市)の悦峯道章に禅問答を行っている。吉保は7月9日に甲斐国内への菩提寺建立を発意し、8月21日には岩窪村(甲府市岩窪町)に境内地を定めた。8月13日に吉保は自身の参禅録を編纂し、これを霊元上皇に対して題を出願している。これに対して、9月23日に霊元上皇は吉保に「護法常王録」の題を授けた。 吉保は大老格の要職にあったため江戸を離れて甲斐を訪れることはなかったが、甲府に配置した家老の薮田重守に指示し、甲府城・城下町の整備、検地の実施、井堰(用水路)の整備、甲州金の一種である新甲金の鋳造などを行っている。また、柳沢時代の年貢割付状では柳沢氏入国前に行われた検地増分を減免し、実質的な減税を行っていた。 吉保側室に正親町町子がいる。町子の出自は諸説あるが、実父は正親町公通で、母は水無瀬氏信娘とする説がある。正親町公通は霊元天皇使者として江戸を度々訪れており、霊元天皇は吉保の和歌へ添削を行い、六義園十二境を定めたことや参禅録に題を授けるなど和歌や文芸面において吉保へ影響を及ぼしている。また、この場合に町子の母となる水無瀬氏信娘は新上西門院房子(鷹司房子)の侍女で「常磐井」を称し、房子の伯母にあたる鷹司信子が将軍綱吉の御台所になると、常磐井は「右衛門佐局」と改名して信子に従い下向し、江戸城大奥総取締役となっている。ちなみに、右衛門佐局の実兄町尻兼量の娘・量子は、近衛家煕の側室となって中御門天皇の女御近衛尚子を生んでいる。正親町町子も、こうした両親の縁により江戸へ下向し、吉保の側室になったと考えられている。町子は後に吉保の半生を王朝風の日記文学として記した『松蔭日記』を記している。 元禄15年(1702年)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位に叙されたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった[要出典]。宝永2年(1705年)、家門に列する。宝永3年(1706年)1月11日には大老格に上り詰めた。
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