甲斐土着から発展とは? わかりやすく解説

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甲斐土着から発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:42 UTC 版)

甲斐源氏」の記事における「甲斐土着から発展」の解説

源氏甲斐国との関係は、平安時代長元3年1030年)の平忠常の乱に際して追討使任じられ源頼信前年甲斐守に任じられ以来継承されていることに遡る。これは、前九年の役後三年の役などを通じた源氏東国進出一環位置づけられている。 甲斐源氏始祖位置づけられているのは、河内源氏3代目源義家八幡太郎義家)の末弟である源義光新羅三郎義光)で、系図によれば義光は甲斐守として入部したといわれ、山梨県には北杜市須玉町若神子など義光伝承残されているが、否定的見解が強い(秋山敬による)。 義光の子源義清(武田冠者)と義清の子源清光常陸国那珂郡武田郷(旧勝田市、現茨城県ひたちなか市武田)に土着して武田氏称している(志田諄一による)。大治5年1130年)に清光の乱暴が原因周辺豪族たちと衝突し裁定結果常陸より追放され甲斐配流される(積極進出とも)。当時甲斐知行国主藤原長実で、藤原長実の父の藤原顕季源義光はかつて主従関係結んでいたことがあり、義清が父の義光の縁によって藤原長実頼った可能性指摘されている。 甲斐国では巨摩郡市河荘勢力基盤とし、義清・清期に古代官牧であった八ヶ岳山麓逸見荘へ進出する清光の子孫は甲府盆地各地進出し武田信義の頃には武田氏中心氏族有力な武士団形成する近年は『長寛勘文』に見られる応保2年1162年)の八代停廃事件甲斐源氏存在見られないことから、国衙笛吹市、旧御坂町)など甲斐勢力持っていた在庁官人である三枝氏勢力圏には及んでいないことも指摘されている。 甲斐国皇室領や摂関家領が数多く分布しており、甲斐源氏荘園領有関係通じて中央政界とも関係を保ち上洛もしている。平安末期皇室摂関家領の抗争中央政界主導権争い起こった保元元年1156年)の保元の乱平治元年1159年)の平治の乱において義家系の源為義・義朝流は没落するが、甲斐源氏の一族は乱から距離を置いて勢力扶植し治承・寿永の乱において中央情勢積極的に関与する

※この「甲斐土着から発展」の解説は、「甲斐源氏」の解説の一部です。
「甲斐土着から発展」を含む「甲斐源氏」の記事については、「甲斐源氏」の概要を参照ください。

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