善光寺地震による被害と掘り貫き工事
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「芋川用水」の記事における「善光寺地震による被害と掘り貫き工事」の解説
1847年5月8日(弘化4年3月24日)に起きた善光寺地震で用水の難所はことごとく破壊され、通水が不可能になってしまう。復旧策について用水関係者が協議した結果、戸草の屏風岩から、芋川村字坂下までの721間余りの距離を一直線に掘り貫き、通水することに決定した。復旧計画では、当地における技術者の確保が難しく、江戸本所番場町棟梁高田屋喜三郎に設計、作業の指導を依頼。9月に着工し翌年3月3日を完成予定期限とした。総工費793両の事業であった。しかし、難工事のため大勢の犠牲者がでて、工事そのものも完成期限には間に合わなかった。仕方なく、壊れた用水の修理を行い、その年の稲の作付けに間に合わせた。この修理と平行して掘り貫き工事も行うと、用水の恩恵を受ける村の役人に書状を出している。 工事は地震から2年後の1849年(嘉永2年)8月25日ようやく貫通、9月20日通水しこれを祝うお祭りが盛大に行われた。このとき、事業の開始から飯山藩の多大な助成があったことから、役人による検分が行われた。しかし、翌年1850年(嘉永3年)1月28日の昼頃、掘り貫きの下流出口が崩落。何とか復旧を試みるも、重機もない時代人力ではどうにもならず、同事業の契約時、普光寺村(現飯綱町大字普光寺)との議定により、当初事業請負の契約通り、従来の用水を修理し、通水することとなった。
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