故郷を離れて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 14:21 UTC 版)
1880年秋、フルトはペテルブルクの聖ヨハネ教会(エストニア語版)から牧師職へ招聘され、一家でペテルブルクへ転居した。フルトはすぐにドルパートへ戻るつもりであったが、翌1881年にはエストニア文学者協会からフルト派が排除された。1882年春にはヤコプソンが急死し、フルトは『サカラ』へ追悼文を送って和解を申し入れたが、新編集長ヤコプ・コルフ (de) によって黙殺された。 翌1883年にはコーレルから、クリミア・エストニア人 (et) のためのクンタガン農園 (et) 購入費用を、アレクサンドル学校基金から数万ルーブル融資するよう求められた。フルトがこれを拒否したところ、学校資金援助委員会は彼を会長から解任した。フルトは基金の流用を恐れて政府に差止めを申立てるも、政府は委員会そのものを解体し、アレクサンドル学校を接収してしまった。そして1888年、アレクサンドル学校はロシア語学校に改組されるに至り、エストニア民族教育というフルト積年の夢は破綻した。 この事件を契機としてフルトはペテルブルクへの定住を決意し、自身の処遇を現地のエストニア人教会へ委ねた。フルトは、ペテルブルクのエストニア人が民族文化(英語版)を失うことを危惧し、聖ヨハネ教会の中にエストニア人学校を設立した。文化活動への支援・講演を繰り返すという経済的・時間的負担と並行して、フルトは言語学者としての研究も休むことはなかった。ヴィーデマンによる『エストニア語=ドイツ語辞典』(et) の改訂作業に関わる一方、エストニア人による司法を夢見て法文や法律用語をエストニア語で整備した。1886年にはヘルシンキ大学からの学位取得を機に、ドルパート大学へ教授資格の取得を申請したが、ドイツ人の妨害により実現しなかった。
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