故郷中津から大阪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
恒藤規隆は安政4年1月17日(1857年2月11日)父、恒藤半四郎、母、恒藤常の13人兄弟の次男として豊前国中津に生まれた。幼名は恒藤小太郎であった。父、恒藤半四郎は中津藩主奥平家が幕府に献上する絹縮を織る仕事に従事していて、やがて奥平藩士に抜擢された。 恒藤は慶応年間から13歳から14歳頃の明治初年まで、中津藩の漢学者の塾で漢籍を学んだ。その後中津の小学校で教師となり、1873年まで勤めた。1873年、恒藤は中津を出奔して漁船に乗り込んで大阪を目指したものの、たちまち両親の追手に捕まってしまった。しかし追手の人物は、中津出身で大阪で医者を開業している宮澤精義がたまたま帰省していて、もうすぐ大阪に戻るので、大阪に行くのならば宮澤と一緒に行くのが良いのではとの両親からの伝言を伝えた。そこで恒藤はいったん両親のもとに戻り、改めて宮澤精義とともに大阪へ向かった。 大阪で恒藤は宮澤精義のもとで下宿し、玄関番をしながらまずは英語の私塾に通って英語を学んだ。私塾で英語を学んでいた頃の恒藤は、中津の両親から送って来る味噌や近所の魚屋で魚のアラを買いながら食いつないでいたという。1875年、大阪英語学校に入学した。英語学校の同級生には関直彦、三崎亀之助らがいた。英語学校時代、引き続き宮澤精義のところに下宿できたものの貧乏生活は続いていて、通学途中の焼き芋屋から焼きくずを買うなどして飢えをしのいだ。なお大阪で勉学をしている時期に名を小太郎から規隆に改めた。1877年春、恒藤は大阪英語学校を卒業する。
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