故郷播磨の若き律宗指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
日本史研究者の金子哲によれば、西大寺で一人前の仏僧となった文観は、乾元2年(1303年)から嘉元4年(1306年)ごろのいずれかの年に、生まれ故郷である播磨国北条郷大野(兵庫県加古川市加古川町大野)に凱旋し、同地にある宝生山常楽寺の長老になったという。 この常楽寺は、おそらく、文観の最初の師の一人である観性房慶尊が、文観の師となった正応3年(1290年)以降のどこかで、初代長老として開山したものである(「西大寺光明真言血縁過去帳第一〈比丘衆/衆首分〉」等からの推測)。金子の推測によれば、文観の出身である地方豪族の大野氏が、新たに真言律宗の寺院を建立し、文観の師である慶尊を同地に招いて長老に据えたのではないか、という。その目的は、大野一族の誉れである文観にゆくゆくは長老を継がせるため、文観と親しい慶尊にそれまでのお膳立てをして貰おう、という積もりだったのではないかと考えられる。 ところが、播磨国での真言律宗の指導者的立場だった慶尊は、嘉元2年(1304年)2月1日から嘉元4年(1306年)2月15日にかけてのいずれかの日に没してしまった。文観は師である慶尊の容態悪化か、あるいはその死の知らせを受けて、急遽、常楽寺の第2世長老になったとみられる。 また、『峯相記』(『大日本仏教全書』117)からは、播磨国法華山(天台宗一乗寺のある山だが、ここでは一乗寺と同居する真言律宗の寺院)の住持(住職)である宇都宮長老からの勢力基盤も引き継いでいたことを読み取ることができる。この宇都宮長老というのは、勧進僧(説法を行い寺院の修繕費を集める僧侶)として活動していた僧侶とみられる。 こうして、文観は、 西大寺の若手エリートとしての周囲からの期待 生家である豪族の大野氏からの金銭的支援 師である観性房慶尊からの播磨国真言律宗の指導者的地位の継承 宇都宮長老からの勧進律僧としての事業引き継ぎ といった背景によって、数え20代後半の若さながら、真言律宗の播磨国における指導者格となった。
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