故郷へ引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 20:45 UTC 版)
「ジョン・ファストルフ」の記事における「故郷へ引退」の解説
1439年に軍務から引退、帰国してイングランドへ戻り、そこで建築に取り掛かった。故郷カイスターの荘園にある屋敷を城館に改造してカイスター城(英語版)の建設を開始、レンガ作りに礼拝堂、濠と98フィートもの高い塔を備えた大規模な城とし、収入は荘園からの羊毛・穀物を輸出して年間1000ポンドの利益を上げていた。もう1つの建物にロンドン南部のサザークに別荘を建てそこで1439年から1454年まで過ごした。あまりにも広大に散りばめられていた領地を管理するためジョン・パストン(英語版)、ウィリアム・ウスターとその妻の叔父トマス・ハウズなどの弁護士・使用人にファストルフの家政と土地の管理を任せた。 だが、帰国してからは収入が減り始めた。フランスの土地はフランス軍に奪い取られ1450年に全て無くなり、イングランドの土地も不在期間が長引いたせいで地代徴収が上手くいかず、王家に用立てた借金も返済されず使用人への給料未払いが続く有様だった。かつての知己だったサフォーク公もファストルフの土地を奪おうと画策し、手下を放って土地を荒らし回り、強引に土地を奪うなど深刻な対立に発展していった。1450年にサフォーク公が失脚・暗殺されて平穏になったと思いきや、ジャック・ケイドが5月に反乱を起こしケントからロンドンへ進軍、使用人の1人が反乱に巻き込まれサザークの屋敷一帯が反乱軍に貸し出されるなど災難に見舞われた。土地を巡る争奪戦がサフォーク公暗殺後も長引き、ジョン・パストンとその一族も略奪の被害に遭っていたため、彼らと共に裁判で有利に立ち回る方法を模索しつつ協力していった。 1454年7月にサザークからカイスター城へ移り住み余生を送り、そこで豪華な贅沢品を散りばめ写本収集に熱中した。訴訟争いは尚も継続される中、親族の後見権を巡る誘拐騒動や王室への借金返済を求める裁判で力を貸したパストンへの信頼を増したが、それにより他の使用人との仲が悪くなっていった。より深刻な問題にファストルフの遺産相続問題があり、1446年に妻が子供を産まないまま死去、連れ子のスティーブン・スクロープはファストルフと不仲だった。ファストルフにはウィリアムという庶子がいたが、聖職者になっていた後で亡くなっていたため、ファストルフの相続人に誰が選ばれるかが焦点になっていた。 薔薇戦争には直接関わらなかったが、裁判で争った敵達が1459年のラドフォード橋の戦いでヨーク派が散り散りになった混乱に乗じ、ランカスター派の支持を背景に取り締まりを画策し、不穏な状況に覆われる中、1459年6月に喘息にかかり遺言状の作成を始めた。内容はしばしば変更され遺言執行人も一定しなかったが、紆余曲折の末に11月3日にパストンを執行人に指名してノーフォークとサフォークの全ての荘園を譲る、他の執行人に財産を譲ると決め、2日後の11月5日に亡くなった。遺体はノーフォークのセント・ベネット修道院へ埋葬された。
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