故郷へ、そして村長にとは? わかりやすく解説

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故郷へ、そして村長に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 16:01 UTC 版)

森国久」の記事における「故郷へ、そして村長に」の解説

終戦後八代市移り住んだは、自宅荒んだ青年集めて再生の道」を説き、また港の復旧奉仕作業取り組んだ1947年昭和22年)、戦後食糧供給安定のために、友人熊本県協同組合水産会社設立併せて熊本県鮮魚共同組合八代出張所所長務め漁業再生取り組んだ1951年故郷樋島村青年団有志から村長選出馬を要請され同年5月村長選に出馬当選して地方自治行政第一歩踏み出した1953年昭和28年4月、国の離島振興法動きを知るや、熊本県離島振興協会結成副会長となる。同年6月25日全国離島代表者決起集会出席し演説。そして、参加者とともに全国離島振興協議会結成し副会長選出された。 郡総合開発協会では5月12日教育会館理事会開き16日熊本県離島振興協会結成並びに総合開発協会解散打合せしたが、当日桜井知事出席する予定。尚本理事会出席した振興局緒方技師次の如く述べた。「天草離島と言っても本土との距離が極めて接近しており、全島法案編入するのは困難という論もあるが、天草特殊性認めるよう我々は努力ねばならぬ。 — みくに新聞1958年5月15日 去る6月17日離島振興法通過並びに天草編入陳情のため離島振興協会役員一行上京した林田地方事務所長は一日帰任し天草編入は確実」と次のように語った。「郡出身園田直吉田重延代議士もとより、県出身議員超党派的協力には感激の他ない。銀杏会には水上副知事出席内村寺本参議上塚司吉田(安)大久保武雄代議士懇請松野頼三自由党政調副会長深水六郎経審政務次官らも全面的に協力確約してくれた。法案提出中心人物長崎県選出綱島正興代議士提案理由説明の際、速記録に残るべく天草編入理由説明することになった長崎新潟鹿児島島根東京、五都県に熊本県割込みは完全に成功25日離島振興全国決起大会では吉田代議士終始我々と行動を共にし、園田代議士は力強い挨拶述べたその後情報によれば一都五県離島振興協議会副会長熊本県離島振興協会副会長樋島村長、森国久氏が決まった模様でますます力強い限りだ。同氏29日経済審議庁における法案委員会出席予算獲得などのため居残った改進党から出す法案修正説明には園田代議士が当たることになっておるが、これは各党了解済み天草はより有利になろう。 離島振興理事として同行した松本佐伊津村長の談によると、25日第一議員会館会議室開かれた全国離島振興決起大会では、熊本県の席は勿論、発言予定すらなかったようだ。これには、一都四県は今まで多額経費時間費やし運動続けており、加えて法案通過して予算計上されると、後で割り込んだ天草のために分け前少なくなる懸念し歓迎しないとの予想当たらずとも外れてはいない。しかし、県出身代議士が一都四県出身代議士了解求め先発水上副知事沢田一精振興局次長らの事前工作もあって、とにかく割り込みには成功翌日結成協議会全国離島振興協議会)に副会長天草から出すまでになった。 — 「天草編入極めて有望 森国久樋島村長が全国協議会副会長」みくに新聞1953年7月3日離島振興法同年7月成立した本土との距離が近い天草は「離島振興法適用は困難といわれる中、同年10月第一回離島振興対策審議会地域指定された。当時熊本県議会議員だった二神勇雄は地域新聞の『天草民報』に、天草地域指定決定したこの審議会傍聴記をよせた。 昭和28年10月9日、この日はわが天草にとって 記念すべき日となった 。それは天草歴史に、天草離島としての経済的文化的後進性を脱却すべき一段階を画することになったからである。東京の街には、朝から立ち込めていた。街路樹ビル冷え冷えした空気の中で濡れたっていた。私はその中を永田町第一衆議院会館にいる園田代議士のもとに急いだ前日離島対策審議会では、天草も一応指定線内入ったものの、委員中には強固論を吐く者もいるので上島特に大矢野島はずされる危険がありやしないか。それに同日指定候補のぼった島々全国33多き達しているが、天草沢山の島を道連れにして結局放り出されるではないか審議会委員をしている某県の知事達が前夜ひそかに集まって協議をしているそうだが 、それは天草をはずす相談ではなかったろうか。このような心配が私の脳裏にあり、最後断案下される今日この日、秋霧立ち込めた 薄暗い東京の街のようにわたくしの心にも冷たくおも苦しいものがあった。会館園田君の部屋に入ると、樋島森村長も約束どおり来合わせていた。前日審議会副会長の席を占めた園田君は会の空気をよく承知して大丈夫だ と言っている。成る程園田君が 副会長になる事は天草認めてのことであろう天草はずされることはあるまい。とにかく会場急ごう最後頑張りだ。午前10時会の始まる前に各県の人にあたって工作をしようと言うので車で会場向かった会場麻布高台米国大使館東側石畳なだらかな坂を登っていったところで、経済審議庁長官官邸当てられていた。そこには熊本県庁振興局次長澤田君が来ていた。間もなく次々に関係各県の人達もやって来て会場のあちちこちで 三々五々たむろして耳打ちの話が始まる。 東京都長崎県のように最初から法案作成あたった五県の間で、前日審議会で候補にのぼっている島々 33を通すことは絶対反対だという。 しかしその島のうちには一ヶ町村位しかない 小さい島もあるから数ほどのことはないという者もある。とにかく33では多すぎる。指定の意味がないから制限すべしという。委員園田君はいよいよ忙しそうに立廻っている。 定刻ごろになる会場関係者一杯になった30名の委員思い思い所定の席につく。 正面会長綱島代議士(長崎県選出)、その両側政府代表として、関係各省次官並び熊本選出深見参議審議次官として席を占め元皇族山階委員(東大理学部地理学教室勤務)が学識経験者として出席されている。 正面会長向かって右端が県知事(鹿児島島根長崎) 、左端が町代表、中央政府代表向かいあって、衆参両議院代表の各議員が居並んでいる。会場のほぼ正面園田君がいる町村代表として 栄ある委員になったわが天草新合村長大塚氏は、 髪を短く刈り上げた年若いきれいな婦人速記者の隣に老眼鏡をかけて控えている。 私は澤田君、と共に園田君の後方補助席の一番前頑張っていた 。綱島会長巨体をゆっくり運んで会長についたかと思うと、同氏議事進行について図りたい、会を円満に進行させたいから、各委員だけ二階の方で懇談したいから上ってくれという。 会場空気からして難航予想される。各委員これに同意し皆席を立った立って行こうとする園田大塚委員ところに駆けつけ、 しっかり頼むぞと声をかける。 何大丈夫だよ園田君は声を残して去る。残され各県関係者落ち着かない風で補助席雑談に時を過ごす。 窓外はいよいよ深く遂にとなった。うす暗くなった室内には天井シャンデリアのみがこうこうと輝いていた。 待たされること1時間半 。やっと二階からどやどや委員帰ってくる。早速園田君をとらえて聞く十二島だけ 第一次指定になったという。勿論天草全島もその中に入っている。先ずこれで安心だ。森村長も会心の笑をたたえている。 まもなく会長開会宣し今井審議官をして、懇談会における指定経過と結果報告させた。指定され十二島とは、伊豆諸島(東京)、 佐渡ヶ島(新潟)、隠岐(島根)、対馬壱岐五島(長崎)、天草(熊本)、屋久島種子島甑島長島南西諸島 (鹿児島)であって、 他は情勢応じ審議会の議を経て指定するのである会長は右の報告結果について 決をとった。全員異議なし。ここに天草 全島指定確定したのだ。 鹿児島県知事から先に日本復帰決定見た奄美大島次の指定考慮されたい旨要望があった。なお 今井審議官から今後審議会運営、特に各県において策定すべき振興計画案取り扱い方について説明があったが、さしあたり昭和28年度としては予算都合上、現在各県から提出中の計画了承することとし月割計算本年度分として総額2億円余りここから支出される旨の報告があった。とにかく本年度から議員立法である離島振興法予算の裏付けができたのは、審議会としてはまった成功で、本年度天草郡事業として確定しているものには 新規事業継続事業もいずれにも全額国庫補助がつくことになり、約5000万円余の割当てがあるということであった結局全国分支出補助額の1/4強は天草獲得することになったわけである。 それだけ補助額の多くなるのは当然で、 長崎県鹿児島県天草全島指定反対したのも肯ける。それで天草 のうち下島はよろしいが上島特に大矢野島外海面せず、かつ隔絶した孤島と言えないというので相当反対空気強かった地理学体系から見て上島大矢野島含めて一体となしているからこれを分離することは不合理であるという山階委員の発言手伝って全島指定となったということだ天草指定最初から最後まで奮闘続け、人しれぬ労苦重ね頑張り続けてくれた園田代議士に対してはまった感謝の外はない。会を終わって世話になった委員心からお礼言葉述べて玄関に出ると、どしゃ降り車寄せで車を待っている間に新潟北昤吉氏(審議会委員代議士) がやって来た。 同氏初めから園田君の立場に対して好意的であった聞いていたので、同氏中心にして園田君、と共に玄関先立って記念撮影をして別れた衆議院会館園田君の部屋帰る新聞記者諸君見えたので連れ立って食堂行き天草指定祝してビール乾杯をした。 — 二神勇雄、「離島振興対策審議会傍聴記」天草民報1953年10月18日離島振興法対象天草地域指定された際には、以下のようなメッセージ地元紙に掲載された。 ー、全国三千有余島々―さらに離島振興法適用条件ワク内の三十三島中から、こんど天草を含む十二島が指定受けたことはまさに歴史的な事実であり、この運動携わって来た者として強い感動覚えざるを得ませんでした。しかしすでに今日天草指定されるまでの経緯過程曲節今さら云々するよりも天草如何に計画振興」させるかの諸問題取り組ねばならぬ時機に立ち到ったことを知らねばなりません。二、どの港を、どの道路をどうするということも重大ですが、ここでは根本的問題いいますか、計画振興運営してゆく上における理念といったものを取り上げてみたいものです。先ず第一に振興法の適用受けたのだから―座して手をこまねいて振興待つものあり」とする考え方がもし郡市民の間にありとするならば法の指定郷土発展百年の計毒すること夥しいといわねばなりません。自らの郷土を自ら振興させる逞しい意欲基礎の上立って手を引き腰を押し上げてこそ、やがて道は拓け花は咲き、実も結ぶでありましよう。 三、第二は、法の適用によって当然起こって来る本年度からの県費及び町村費の節減余裕伴なう問題であります国費といい県町村費申しましても同じ流れの「国民」という源から滲む思い流れ出る税金であります離島振興法国費補助によって浮いた町村費を不時収入あったかのように軽くあしらい町村振興町村民の福祉増進その節余裕金を振り向けなかったら、その町村理事者は国民の名においてその非を厳しく指摘されなければなりますまい。 四、第三に、離島振興協会運営問題であります従来本郡振興発展目的として天草総合開発協会ありましたが、半年前知事を会長とする「熊本離島振興協会」の発足により発展解消遂げたもので、総合開発協会過去三年間に培養して来た地力すなわち親木接木された協会という関係において発足したであります。本協会町村共同振興連合体であり、「和を第一とする」原則に基く協会である以上、今後はこの原則忘れて運営されることがあってはならないであります。 五、今日までの歩みには種々の問題もあり、内面的な波瀾もあったのですがそれにこだわることは郡の振興策を誤る以外の何物でもないのでありまして、今後天草振興計画樹立するに当って大局に目をおおうことなく町村相互の和を図るとともに共同意識高め率直にそれぞれのカをだし合い郷土十年計画問題とすべきでありましよう協会理事一人として自ら責め省みるゆえんであります指定の後に来る根本的諸問題取上げたものの意尽さざるをおわびし今後協会運営対し郡民各位建設的批判御鞭撻お願いいたします。 — 森国久、「離島天草振興諸問題天草民報1954年11月15日 1954年昭和29年7月)、町村合併促進法(法律第二五十八号、昭和28.9.1)に基づいて高戸村樋島村大道村三村合併龍ヶ岳村誕生村長選挙当選し初代村長となる。1955年昭和30年1月内閣総理大臣諮問機関離島振興対策審議会」の委員となる。「離島振興法実施地域」の指定をはじめ、数次にわたる離島振興法改正離島振興予算一本化達成経済企画庁内に離島振興創設実現年々離島予算獲得、そして「開拓」「山林造林」「漁港修築」「道路改良拡張新設」「港湾整備浚渫防波堤整備」「住宅建設」「簡易水道敷設」「学校校舎建築」「保育園建設」「発送施設設置」など、多く施策実施のために尽力した。これらの離島振興地域指定解除になるまで約1300億円が天草投入された。

※この「故郷へ、そして村長に」の解説は、「森国久」の解説の一部です。
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