故郷へ、そして村長に
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終戦後、八代市へ移り住んだ森は、自宅に荒んだ青年を集めて「再生の道」を説き、また港の復旧奉仕作業に取り組んだ。1947年(昭和22年)、戦後の食糧供給安定のために、友人と熊本県協同組合水産会社を設立。併せて熊本県鮮魚船共同組合八代出張所所長も務め、漁業再生に取り組んだ。1951年、故郷、樋島村の青年団有志から村長選出馬を要請され、同年5月の村長選に出馬。当選して地方自治行政の第一歩を踏み出した。 1953年(昭和28年)4月、国の離島振興法の動きを知るや、熊本県離島振興協会を結成、副会長となる。同年6月25日、全国離島民代表者決起集会に出席し演説。そして、森は参加者とともに全国離島振興協議会を結成し、副会長に選出された。 郡総合開発協会では5月12日、教育会館で理事会を開き、16日熊本県離島振興協会結成並びに郡総合開発協会の解散の打合せしたが、当日は桜井知事も出席する予定。尚本理事会に出席した県振興局の緒方技師は次の如く述べた。「天草は離島と言っても本土との距離が極めて接近しており、全島を法案に編入するのは困難という論もあるが、天草の特殊性を認めるよう我々は努力せねばならぬ。 — みくに新聞、1958年5月15日 去る6月17日、離島振興法案通過並びに天草編入陳情のため離島振興協会役員一行と上京した林田地方事務所長は一日帰任し「天草の編入は確実」と次のように語った。「郡出身園田直、吉田重延代議士はもとより、県出身議員の超党派的協力には感激の他ない。銀杏会には水上副知事と出席、内村、寺本参議、上塚司、吉田(安)大久保武雄各代議士に懇請、松野頼三自由党政調副会長、深水六郎経審政務次官らも全面的に協力を確約してくれた。法案提出の中心人物長崎県選出の綱島正興代議士は提案理由説明の際、速記録に残るべく天草編入理由を説明することになった。長崎、新潟、鹿児島、島根、東京、五都県に熊本県の割込みは完全に成功、25日の離島振興全国決起大会では吉田代議士は終始我々と行動を共にし、園田代議士は力強い挨拶を述べた。その後の情報によれば一都五県の離島振興協議会の副会長に熊本県離島振興協会副会長の樋島村長、森国久氏が決まった模様でますます力強い限りだ。同氏は29日の経済審議庁における法案委員会に出席、予算獲得などのため居残った。改進党から出す法案修正案説明には園田代議士が当たることになっておるが、これは各党了解済みで天草はより有利になろう。 離島振興理事として同行した松本佐伊津村長の談によると、25日第一議員会館会議室で開かれた全国離島振興決起大会では、熊本県の席は勿論、発言の予定すらなかったようだ。これには、一都四県は今までに多額の経費と時間を費やし、運動を続けており、加えて法案が通過して予算が計上されると、後で割り込んだ天草のために分け前は少なくなる等懸念し、歓迎しないとの予想は当たらずとも外れてはいない。しかし、県出身代議士が一都四県出身の代議士に了解を求め、先発の水上副知事、沢田一精振興局次長らの事前工作もあって、とにかく割り込みには成功、翌日の結成協議会(全国離島振興協議会)に副会長を天草から出すまでになった。 — 「天草編入極めて有望 森国久樋島村長が全国協議会副会長」みくに新聞、1953年7月3日) 離島振興法は同年7月成立した。本土との距離が近い天草は「離島振興法」適用は困難といわれる中、同年10月の第一回離島振興対策審議会で地域指定された。当時、熊本県議会議員だった二神勇雄は地域新聞の『天草民報』に、天草の地域指定を決定したこの審議会の傍聴記をよせた。 昭和28年10月9日、この日はわが天草にとって 記念すべき日となった 。それは天草の歴史に、天草が離島としての経済的文化的後進性を脱却すべき一段階を画することになったからである。東京の街には、朝から霧が立ち込めていた。街路樹もビルも冷え冷えした空気の中で霧に濡れたっていた。私はその中を永田町の第一衆議院会館にいる園田代議士のもとに急いだ。前日の離島対策審議会では、天草も一応指定の線内に入ったものの、委員の中には強固論を吐く者もいるので上島特に大矢野島がはずされる危険がありやしないか。それに同日指定候補にのぼった島々が全国で33の多きに達しているが、天草も沢山の島を道連れにして結局放り出されるのではないか。 審議会の委員をしている某県の知事達が前夜ひそかに集まって協議をしているそうだが 、それは天草をはずす相談ではなかったろうか。このような心配が私の脳裏にあり、最後の断案の下される今日この日、秋霧の立ち込めた 薄暗い東京の街のようにわたくしの心にも冷たくおも苦しいものがあった。会館の園田君の部屋に入ると、樋島の森村長も約束どおり来合わせていた。前日の審議会で副会長の席を占めた園田君は会の空気をよく承知して大丈夫だ と言っている。成る程園田君が 副会長になる事は天草を認めてのことであろう。天草がはずされることはあるまい。とにかく会場に急ごう。 最後の頑張りだ。午前10時会の始まる前に各県の人にあたって工作をしようと言うので車で会場に向かった。会場は麻布の高台、 米国大使館の東側石畳のなだらかな坂を登っていったところで、経済審議庁長官官邸が当てられていた。そこには熊本県庁の振興局次長澤田君が来ていた。間もなく次々に関係各県の人達もやって来て、会場のあちちこちで 三々五々たむろして耳打ちの話が始まる。 東京都や長崎県のように最初から法案作成にあたった五県の間で、前日の審議会で候補にのぼっている島々 33を通すことは絶対反対だという。 しかしその島のうちには一ヶ町村位しかない 小さい島もあるから数ほどのことはないという者もある。とにかく33では多すぎる。指定の意味がないから制限すべしという。委員の園田君はいよいよ忙しそうに立廻っている。 定刻ごろになると会場は関係者で一杯になった。 30名の委員が思い思いに所定の席につく。 正面に会長綱島代議士(長崎県選出)、その両側に政府代表として、関係各省次官が並び、熊本選出の深見参議は審議庁次官として席を占め、元皇族の山階委員(東大理学部地理学教室勤務)が学識経験者として出席されている。 正面の会長席向かって右端が県知事(鹿児島、島根、長崎) 、左端が町村代表、中央に政府代表と向かいあって、衆参両議院代表の各議員が居並んでいる。会場のほぼ正面に園田君がいる。町村代表として 栄ある委員になったわが天草の新合村長大塚氏は、 髪を短く刈り上げた年若いきれいな婦人速記者の隣に老眼鏡をかけて控えている。 私は澤田君、森君と共に園田君の後方の補助席の一番前に頑張っていた 。綱島会長が巨体をゆっくり運んで会長席についたかと思うと、同氏は議事進行について図りたい、会を円満に進行させたいから、各委員だけ二階の方で懇談したいから上ってくれという。 会場の空気からして難航が予想される。各委員これに同意し皆席を立った。立って行こうとする園田、大塚委員のところに駆けつけ、 しっかり頼むぞと声をかける。 何大丈夫だよと園田君は声を残して去る。残された各県関係者は落ち着かない風で補助席で雑談に時を過ごす。 窓外の霧はいよいよ深く遂に雨となった。うす暗くなった室内には天井のシャンデリアのみがこうこうと輝いていた。 待たされること1時間半 。やっと二階からどやどや各委員が帰ってくる。早速園田君をとらえて聞くと十二島だけ 第一次指定になったという。勿論天草全島もその中に入っている。先ずこれで安心だ。森村長も会心の笑をたたえている。 まもなく会長は開会を宣し、今井田審議官をして、懇談会における指定の経過と結果を報告させた。指定された十二島とは、伊豆諸島(東京)、 佐渡ヶ島(新潟)、隠岐(島根)、対馬、壱岐、 五島(長崎)、天草(熊本)、屋久島、種子島、 甑島、長島、南西諸島 (鹿児島)であって、 他は情勢に応じ審議会の議を経て指定するとのである。会長は右の報告の結果について 決をとった。全員異議なし。ここに天草 全島の指定が確定したのだ。 鹿児島県知事から先に日本復帰の決定を見た奄美大島は次の指定に考慮されたい旨要望があった。なお 今井田審議官から今後の審議会の運営、特に各県において策定すべき振興計画案の取り扱い方について説明があったが、さしあたり昭和28年度としては予算の都合上、現在各県から提出中の計画を了承することとし 、月割計算で 本年度分として総額2億円余りをここから支出される旨の報告があった。とにかく本年度から議員立法である離島振興法に予算の裏付けができたのは、審議会としてはまったく成功で、本年度天草郡の事業として確定しているものには 新規事業、継続事業もいずれにも全額国庫補助がつくことになり、約5000万円余の割当てがあるということであった。結局全国分支出補助額の1/4強は天草が獲得することになったわけである。 それだけ補助額の多くなるのは当然で、 長崎県や鹿児島県が天草全島の指定に反対したのも肯ける。それで天草 のうち下島はよろしいが上島特に大矢野島は外海に面せず、かつ隔絶した孤島と言えないというので相当反対の空気が強かったが地理学体系から見て上島大矢野島を含めて一体となしているからこれを分離することは不合理であるという山階委員の発言も手伝って全島指定となったということだ。天草の指定に最初から最後まで奮闘を続け、人しれぬ労苦を重ね、頑張り続けてくれた園田代議士に対してはまったく感謝の外はない。会を終わって世話になった各委員に心からお礼の言葉を述べて玄関に出ると、雨はどしゃ降り。車寄せで車を待っている間に新潟の北昤吉氏(審議会委員、代議士) がやって来た。 同氏は初めから園田君の立場に対して好意的であったと聞いていたので、同氏を中心にして園田君、森君と共に玄関先に立って記念撮影をして別れた。衆議院会館の園田君の部屋に帰ると新聞記者諸君が見えたので連れ立って食堂に行き、天草指定を祝してビールで乾杯をした。 — 二神勇雄、「離島振興対策審議会傍聴記」天草民報、1953年10月18日号 離島振興法の対象に天草地域が指定された際には、以下のような森のメッセージが地元紙に掲載された。 ー、全国三千有余の島々―さらに離島振興法の適用条件はワク内の三十三島中から、こんど天草を含む十二島が指定を受けたことはまさに歴史的な事実であり、この運動に携わって来た者として強い感動を覚えざるを得ませんでした。しかしすでに今日天草が指定されるまでの経緯、過程、曲節を今さら云々するよりも天草を如何に「計画振興」させるかの諸問題と取り組まねばならぬ時機に立ち到ったことを知らねばなりません。二、どの港を、どの道路をどうするということも重大ですが、ここでは根本的問題といいますか、計画振興を運営してゆく上における理念といったものを取り上げてみたいものです。先ず第一に、振興法の適用を受けたのだから―座して手をこまねいて「振興待つものあり」とする考え方がもし郡市民の間にありとするならば法の指定で郷土発展百年の計を毒すること夥しいといわねばなりません。自らの郷土を自ら振興させる逞しい意欲の基礎の上に立って手を引き腰を押し上げてこそ、やがて道は拓け花は咲き、実も結ぶでありましよう。 三、第二は、法の適用によって当然起こって来る本年度からの県費及び町村費の節減余裕に伴なう問題であります。国費といい県町村費と申しましても同じ流れの「国民」という源から滲む思いで流れ出る税金であります。離島振興法の国費補助によって浮いた町村費を不時の収入があったかのように軽くあしらい、町村の振興、町村民の福祉増進にその節減余裕金を振り向けなかったら、その町村の理事者は国民の名においてその非を厳しく指摘されなければなりますまい。 四、第三に、離島振興協会運営の問題であります。従来、本郡の振興発展を目的として天草総合開発協会がありましたが、半年前知事を会長とする「熊本離島振興協会」の発足により発展解消を遂げたもので、総合開発協会が過去三年間に培養して来た地力すなわち親木に接木された協会という関係において発足したのであります。本協会は町村の共同振興連合体であり、「和を第一とする」原則に基く協会である以上、今後はこの原則を忘れて運営されることがあってはならないのであります。 五、今日までの歩みには種々の問題もあり、内面的な波瀾もあったのですがそれにこだわることは郡の振興策を誤る以外の何物でもないのでありまして、今後天草の振興計画を樹立するに当っては大局に目をおおうことなく町村相互の和を図るとともに共同意識を高め率直にそれぞれのカをだし合い、郷土十年の計画を問題とすべきでありましよう。協会理事の一人として自ら責め省みるゆえんであります。 指定の後に来る根本的諸問題を取上げたものの意尽さざるをおわびし今後の協会運営に対し郡民各位の建設的批判と御鞭撻をお願いいたします。 — 森国久、「離島天草振興の諸問題」天草民報1954年11月15日 1954年(昭和29年7月)、町村合併促進法(法律第二百五十八号、昭和28.9.1)に基づいて、高戸村、樋島村、大道村三村合併で龍ヶ岳村が誕生。村長選挙に当選し、初代村長となる。1955年(昭和30年)1月、内閣総理大臣の諮問機関「離島振興対策審議会」の委員となる。「離島振興法実施地域」の指定をはじめ、数次にわたる離島振興法の改正、離島振興予算一本化の達成、経済企画庁内に離島振興課創設の実現。年々の離島予算の獲得、そして「開拓」「山林造林」「漁港修築」「道路改良、拡張、新設」「港湾整備、浚渫、防波堤整備」「住宅建設」「簡易水道敷設」「学校校舎建築」「保育園建設」「発送電施設設置」など、多くの施策の実施のために尽力した。これらの離島振興の地域指定が解除になるまで約1300億円が天草に投入された。
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