ペテロの後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ペテロの後継者」の解説
詳細は「教皇権」および「初期キリスト教#職制・一人司教制とローマ教会の首位権」を参照 ローマ司教が教会において優位性を立証できるとすれば、それはまずイエスの言葉に求められるべきであったし、事実そこに根拠が見つけられた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた 。 初期の教会において、このことは当初あまり重視されていたわけではなかったが、3世紀半ばまでにローマ司教は帝国西方における唯一無二の権威を獲得し始めていた。そして343年のサルディカ公会議はローマ司教の権威を大いに高めた。東方での激しい神学論争で敗れ、追放されたアタナシオスを当時の教皇ユリウス1世は暖かく迎え入れ、対立する両党派の司教を集めてサルディカで公会議を開くことを皇帝に要求した。東方の司教たちはアタナシオスの出席に反発して参加を拒否したが、西方の司教たちは独自に集まりアタナシオスを復位させた。神学論争は解決されなかったが、この公会議においてローマ司教は司教同士の争いを裁定するための「上訴裁判権」があることが公的に決定された。この時期の教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年にヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。4世紀の教皇シリキウスはテサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアとマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせている。5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及ぶようになった。 しかしこのことでただちにローマ教皇の地位が、後世のように独自の権威性をもって普遍的な優位を確立したわけではない。東ローマ皇帝ユスティニアヌスがイタリア半島をローマ皇帝の支配の下に回復すると、彼はローマの司教も皇帝の統制に服するべきであると考えた。教皇の側もそれを受け入れ、帝国の支配に復帰することをむしろ歓迎していた。
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