ペテンのイツァ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/13 15:33 UTC 版)
後古典期にイツァ族はペテン・イツァ湖一帯に勢力をはり、その中心都市はタヤサルであった。スペイン人が高地マヤとユカタン半島を征服した後も、この土地はスペインの影響を受けず、17世紀末まで独立が保たれた。 このイツァ族の王はチチェン・イッツァの出身を自称し、マヤパンの衰亡にともなってペテン・イツァ湖に移住したと称していた。また、イツァ族の言語はモパン族(英語版)などと同様に、マヤ語族のなかでユカテコ語に近い。 ただし、ペテン地方でイツァという語は古典期前期にすでに見えており、後古典期になってはじめて北部からペテンに移住したわけではないようである。 イツァ族は攻撃的・拡張主義的で、ペテン・イツァ湖一帯を遠く離れて、南のサルストゥン川(英語版)、パシオン川沿岸、東のベリーズにまで植民を行っていた。 17世紀にはいるとスペイン人の宣教師が何度もタヤサルで布教しようとしたが、失敗した。最終的に1697年3月13日に108人のスペイン人によるタヤサルの軍事的征服が行われた。タヤサルはもっとも遅くまでスペインから独立したマヤの都市だった。 その後、天然痘などの伝染病が蔓延し、スペイン人も多数が死んだが、イツァ族には壊滅的な打撃を与えた。ペテン中央部の先住民の人口は1697年には少なくとも6万人があったが、1708年には7000人に減少した。
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