第一次世界大戦の前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:03 UTC 版)
「ルーマニアのユダヤ人の歴史」の記事における「第一次世界大戦の前後」の解説
1878年の後間もなく、ルーマニアから他国へのユダヤ人の大規模な移住が始まった。人数には波があり、1905年にロシア帝国で起きたキシニョフ・ポグロム以後には、在ベッサラビアのユダヤ人の移住の大きなブームがあった。1905年、ポグロムの直前に執筆された『ジューイッシュ・エンサイクロペディア』には、「旅費が賄われれば少なくとも70%のユダヤ人が国を後にすることが確実である」と書かれている。移住の公式な統計はないが、1898年から1904年にかけて他国へ移住したユダヤ人は70,000人を下らないと考えるのが妥当なところである。 土地問題と借地管理人に占めるユダヤ人の高い割合は、反ユダヤ的な意味合いを含んでいた1907年のルーマニア農民暴動 (1907年)の発端となった。同じ時期、反ユダヤ主義の風潮が初めて国民自由党の支持基盤を越えて拡大し(党自身にとっては、この主張は瑣末なものに過ぎなくなる)、アレクサンドル・C・クザ(Alexandru C. Cuza)が創設したモルダヴィアを基盤としたより急進的な組織へと引き継がれてゆく。すなわち、ルーマニア政治史において初めて反ユダヤ主義を掲げた政党である民主国民党である。反ユダヤ主義は1920年代には国民自由党のイデオロギーではなくなり、左翼陣営や、ルーマニアの民衆中心主義 (Poporanism) に由来する思潮(農民がユダヤ人によって構造的な搾取を被っていると主張する)でも高まっていた。 祖国防衛に殉じた882人のユダヤ人兵士(825人は叙勲された)の犠牲者を出した第一次世界大戦は、1919年のパリ講和会議やその他の条約により大ルーマニア領の成立をもたらした。領土を拡大した国家にはベッサラビア、ブコヴィナ、トランシルヴァニア地方の共同体の加入に対応してユダヤ人人口の増加がもたらされた。条約の調印においてルーマニアはユダヤ人に対する政策の変更に同意し、彼らに市民権と少数民族としての権利の両方を与える実効的なユダヤ人解放(Jewish Emancipation)を約束した。1923年のルーマニア憲法では、クザの民族キリスト教徒守護同盟(Liga Apărării Naţional Creştine)の反対やヤシでの極右学生の暴動を受けながらもこれらの要求が承認された。イオン・I・C・ブラティアヌ(Ion I.C. Brătianu)内閣によって行われた農地改革により、土地借用に関する問題も決着をみた。 戦間期のユダヤ人共同体の政治的代弁者は、ユダヤ人党とルーマニア・ユダヤ人連邦党に二分された(後者は1989年以後に再結成されている)。同じ時期、トランシルヴァニアの改革派ユダヤ教徒と、国内の残りを占める正統派ユダヤ教徒の間で宗教儀礼上の分裂も明らかとなっていた。一方でベッサラビアはシオニズム、特に社会主義者の労働シオニズムに最も寛容であった。 そのような状況ではあったが反ユダヤ主義は広がりをみせ、1920年代後半にはファシズムの風潮と融合していった。これらはいずれもコルネリウ・コドレアヌの鉄衛団の創設と成功を促し、グンディリスム (Gândirism) という反ユダヤ主義の新たな主張を生んだ。学生や教師の間では高等教育におけるユダヤ人配分論(Jewish quota、ユダヤ人の人口割合を制限する構想)が高い人気を誇った。歴史家アンドレイ・オイシュテアヌの分析によれば、アレクサンドル・C・クザの暴力的主張によって反ユダヤ主義の評価が芳しいものではなくなっていたため、右翼の知識人にも反ユダヤ主義を公然と支持することを拒む者が相当数あった。しかし数年後にはそうした警戒は顧慮されなくなり、反ユダヤ主義は"精神の健康"として誇示されるようになった。 1937年5月16日、専門知識人協会連盟(Confederaţia Asociaţiilor de Profesionişti Intelectuali din România)が連携団体からの全ユダヤ人構成員の排除を評決し、国に対して彼らの諸認可を取り消して市民権を再査定することを申し立てた 。この施策は専門家組織からのユダヤ人排斥の動きとして最初のものであり、非合法ではあったものの支持を受け、この場合は「英雄的な決定」が合法性に成り代わったのであると論評された。オイシュテアヌによれば、この発議は続く年に可決された反ユダヤ的な諸々の規定に直接的な影響を与えた。 鉄衛団の脅威およびヨーロッパの一大勢力としてのナチス・ドイツの出現、さらに自身のファシズムへの同調により、広く親ユダヤとみなされていたカロル2世(愛人マグダ・ルペスクはユダヤ人とされる)は人種差別を規範的なものとして受容するようになった。1938年1月21日、カロルの執行部(クザとオクタヴィアン・ゴガが率いた)は、前内閣がウクライナ系ユダヤ人が非合法的に市民権を得るのを許していたと論難した後、市民権の資格を見直し、1918年から1919年の間に市民権を得た全てのユダヤ人に申請のやり直しを求める法案を通過させた(再申請の期限は20日間という極めて短いものである)。1940年、イオン・ギグルトゥ内閣はナチス・ドイツのニュルンベルク法と同等の法律を採択した。その内容は、ユダヤ教徒とキリスト教徒との異宗教間結婚を禁止し、人種に基づいたユダヤ人の定義を定めるものであった(父方・母方を問わず祖父母にユダヤ人が含まれる者をユダヤ人と規定)。
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