1919年のパリ講和会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 14:10 UTC 版)
「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド」の記事における「1919年のパリ講和会議」の解説
オルランドは首相であったが、1919年のパリ講和会議でイタリア首席全権を兼務してイギリスのロイド・ジョージ、フランスのジョルジュ・クレマンソー、アメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソンと並ぶ四巨頭(英語版)とされた。 しかし、オルランド内閣で外務大臣を務めていた保守派のシドニー・ソンニーノ(イタリア語版)との方針の違いは会議が進むにつれて明確になっていった。オルランドはアドリア海の重要な港湾都市フィウメ(現リエカ)を獲得する代わりに、ダルマチア地方の割譲権の放棄を考えていた。ソンニーノはダルマチア地方こそ重要だと主張した。結局、イタリアは両方を要求することになった。しかし、アメリカのウィルソン大統領の民族自決の方針により、いずれの領土も得ることはできなかった。オルランドは1919年4月に突如会議を退席するが、結局翌月に戻ってヴェルサイユ条約にしぶしぶ署名した。フランスの首相ジョルジュ・クレマンソーはオルランドを泣き虫 (The Weeper) 呼ばわりし、オルランド自身は「あの時・・・、我々の要求が全く受け入れられないと分かった時・・・、私は床にうずくまった。頭を何度も壁にぶつけた。泣いた。死にたかった」と呟いたという。 オルランドの政治的立場は、パリ講和会議でイタリアの要求を通せなかったことから非常に弱くなり、1919年6月23日に首相を辞職して同年12月にイタリア下院の議長となった。このフィウメの獲得失敗は「骨抜きにされた勝利(イタリア語版)(Vittoria Mutilata)」としてガブリエーレ・ダンヌンツィオに批判され、後のファシズムの台頭を招くことになる。
※この「1919年のパリ講和会議」の解説は、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド」の解説の一部です。
「1919年のパリ講和会議」を含む「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド」の記事については、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド」の概要を参照ください。
- 1919年のパリ講和会議のページへのリンク