国際連盟事務総長への選出
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「エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の記事における「国際連盟事務総長への選出」の解説
1919年のパリ講和会議を前に、設立されたばかりの国際連盟の事務総長にふさわしい候補者の選考は難航していた。国際連盟規約の起草や国際連盟の組織化に重要な役割を果たしたロバート・セシルは当初、国の公職経験者が就くのが望ましいと考えていたが、選定した候補者は誰も引き受けようとしなかった。 セシルは、最高の能力を持った人物でなければ、この役割を果たせないと考えていた。しかし、当初考えていたほどの権限が事務総長に与えられないことを受けて、セシルは考えを改め、習熟した公務員で、政治家としての知名度が低い人物から候補を探すことにした。最初に声をかけたのはモーリス・ハンキー(英語版)で、ハンキーも興味を示していたがパリ講和会議の10日前になってオファーを断った。セシルはハンキーが辞退するという不測の事態には、エリック・ドラモンドを起用することを想定していた。 ドラモンドは、1915年の時点で、国際組織の設立に好意的な姿勢を示していた。そのため、ドラモンドは国際連盟設立の交渉に参加していた。また、ドラモンドがイギリス人であることも、セシルが高く評価していた点である。ドラモンドは外交官としての経験が豊富で、19年間の外務省勤務で高い評価を得ていたこともあり、最適な人材と考えられた。当初、ドラモンドは国際連盟の運営に不安を感じていたが、最終的にこの提案を受け入れた。1919年4月28日のパリ講和会議の本会議で、国際連盟の初代事務総長にドラモンドを任命することが承認された。
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