ファシズムの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
「第二次世界大戦の背景」の記事における「ファシズムの台頭」の解説
ファシズムの政治体制が最初に形成されたのはイタリアにおいてである。イタリアでは第一次世界大戦直後に経済が悪化し政情不安に陥っていたが、1922年、ファシスト党を率いるベニート・ムッソリーニがローマ進軍を行い、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の協力もあって権力を獲得した。世界恐慌の苦境に際しては、ムッソリーニは1935年のエチオピア侵略に打開策を求め、それが元となってイタリアは1937年に国際連盟及び国際労働機関を脱退した。 ドイツでは1933年、ヴェルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握した。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。国際関係では、1933年に国際連盟を脱退、1935年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言、1936年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させた。また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。 法曹の国粋主義団体としては1924年には国本社、1925年には帝国弁護士会が設立されており、1931年に関東軍の独断による柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933年には国際連盟及び国際労働機関を脱退し、翌年にはワシントン海軍軍縮条約を脱退。司法省は、ナチス・ドイツ関連の論文を発行し始めた。満州事変後、中国と日本とは一旦は停戦協定を結ぶものの、1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発した。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。 国内情勢は、日英同盟によって、第一次世界大戦の戦勝国側であった日本は、その後のワシントン体制やロンドン海軍軍縮会議等の軍縮の流れに乗らざるを得なかったという事情もあり、軍部には不満をもつ者もいた。 更に1923年の関東大震災や1929年の世界恐慌の影響で国内に大きな打撃を受けていたタイミングで、日本では井上蔵相の下、1930年に金本位制への復帰を宣言してしまう。世界恐慌という事象を甘くみすぎていた事が仇となり、金本位復帰後すぐに国内から正貨が大量に流出した。また、輸出で賄っていた企業は、主要輸出先であるアメリカ等が不況であった為に大打撃を受け、物が売れず、戦前でも最悪のデフレ状態となってしまう。農村では生糸の輸出が主な稼ぎだった家庭も多く、そういった家庭では娘の身売りなどが起き、政府に対する不満は高まっていった。そんな中、1932年に金本位制をうったえていた井上前蔵相等が右翼団であった血盟団によって襲撃、殺害される血盟団事件が発生。同年には当時の首相であった犬養毅の自宅や警視庁、変電所、日本銀行等を海軍青年将校が計画的に襲撃、同時に犬養首相らを殺害する五・一五事件が発生。しかしこれらの事件の実行犯は嘆願書等の事由により、軽い刑罰で済んだ。この事が後に軍部の発言力を増す要因になる。1936年には皇道派陸軍青年将校が武力によって政治改革をするため、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実らを襲撃し殺害する二・二六事件が発生。同事件は同陸軍により鎮圧されるも、この事件後、皇道派は衰退し、逆に東條英機ら統制派が勢力を伸ばすことになる。詳しくは同ページの「アジア各国の情勢」を参照のこと。
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