その後のワシントン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/11 13:58 UTC 版)
「ワシントン・ローブリング」の記事における「その後のワシントン」の解説
ブルックリン橋のプロジェクトが終了すると、ワシントンとエミリーはトロイに転居。1884年から1888年までをそこで過ごした。息子・ジョン・ローブリング二世は、父に続きレンセラー・ポリテクニック・インスティテュートに通った。二世が卒業したとき、夫妻はトレントンに戻り、1892年にはウェスト・ステート・ストリート191番地に転居した。 1902年から翌年にかけて、ワシントンはレンセラー・アラムナイ協会(Alumni Association at Rensselaer、AAR)の代表に収まった。1903年、エミリーが胃がんのため死去。1908年、ワシントンはサウスカロライナ州チャールストンのコーネリア・ウィトセル・ファロウと再婚した。 ワシントンの弟、チャールズ・ギュスターブス・ローブリングは、一人息子にワシントンの名前をとり、ワシントン・オーガストス・ローブリング二世と名付けた。その一人息子は、1912年のタイタニック号の遭難で命を落とした。 ジョン・A・ローブリング・アンド・カンパニーの社長を務めていたカール・ギュスターブス・ローブリング(ワシントンの弟・ウイリアム・ローブリングの息子)が1921年に死去すると、ワシントンは84歳にして再度同社の社長となった。そしてワシントンは1926年に死去、89歳であった。最後の2ヶ月は病床にあった。
※この「その後のワシントン」の解説は、「ワシントン・ローブリング」の解説の一部です。
「その後のワシントン」を含む「ワシントン・ローブリング」の記事については、「ワシントン・ローブリング」の概要を参照ください。
- その後のワシントンのページへのリンク