その後のヴォートリン
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「ミニー・ヴォートリン」の記事における「その後のヴォートリン」の解説
1938年夏 安全区撤廃後も金陵女学院に保護した若い女性難民800人余を対象に夏期学校を開き、身寄りをなくした女性が自活していくための識字教育や職業技術・家政教育、衛生看護教育を開始。同年9月 金陵女学院に正式な家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、広く南京市内の貧困家庭の女性にも開放した。ヴォートリンは、女性難民からは学費を徴収できなかったため学校経費の調達に悩み、また日本の軍政当局から傀儡政府(中華民国維新政府)の学校制度に従うことや同政府の発行する教科書を使用することを要求されて悩んだ。また日本軍が次々と中国と中国の大都市を爆撃・破壊し、戦火を拡大していくニュースに接して傷つき、中国で実現しようとしていた夢を破壊されたように感じ、南京事件の体験を思い出してトラウマを悪化させていった。 1939年3月末、家庭工芸クラスの半年の教育課程が終了すると、ヴォートリンは1940年秋からの農村女子教育クラスの開校を計画した。同年夏、連合キリスト教伝道団はアメリカへの帰国と休暇を勧めるが、ヴォートリンはこれを固辞し、さらに疲労と倦怠を深めた。同年9月にヨーロッパ対戦が勃発してドイツ・イタリアの大攻勢が続き、勢いづいた日本が中国侵略を拡大させ、戦争の惨禍が世界に広がったことで更に絶望的になった。 1940年3月上旬、上海でのキリスト教宗教教員者の大会に出席した際、上海の街で、豪華で享楽的な生活を楽しむ多くの中国人女性の姿を見て衝撃を受けたことが抑鬱症状の引き金となり、同年3月30日に汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を宣言したことが追い討ちをかけた。同年4月14日の「わたしの気力はもう消滅しそうだ。わたしはもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法にはかならずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」との記述が最後の日記となった。 それ以後、抑鬱症状は更に深刻になり、同年5月14日、親友で学院の教師キャサリン・サザランドとマギー牧師が付き添って、精神治療の為に米国に帰国。その後、精神療養施設での療養生活、病状回復と自殺未遂を繰り返し、1941年5月14日、インディアナポリスの連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所でガス自殺を図り、55歳で死去した。
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