その後の三六
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1996年11月、三塚は橋本龍太郎首相の下で蔵相に就任した。しかし、1997年11月の山一證券・北海道拓殖銀行の破綻等の未曾有の金融危機の際に目立った指導力を発揮出来ず、大蔵省接待汚職事件の責任を取って辞任を余儀なくされた。そのため、翌年には派閥会長の座を森に譲渡、政界の最前線から引いたことで内閣総理大臣への道は閉ざされた。 1993年7月、加藤は第40回衆議院議員総選挙直後に自民党を離党、翌年4月に新生党に参加した。羽田内閣では再度農水大臣に就任し、その後は新進党・自由党で小沢と行動を共にしていく。1996年の第41回衆議院議員総選挙では新進党公認で出馬し、橋本と同じ岡山4区で議席を争った(結果は橋本が当選、加藤は比例復活)。 加藤は2000年6月の第42回衆議院議員総選挙に出馬せずに政界を引退後、2006年2月28日に死去(同年7月1日に橋本も死去した)。三塚は2003年11月の第43回衆議院議員総選挙に出馬せずに政界を引退、半年後の2004年4月25日に死去した。 その後、清和会の領袖は森へと引き継がれ、2000年以降清和会からは森に引き続き小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と4代続けて内閣総理大臣を輩出することとなる。また、加藤の地盤を引き継いだ娘婿の勝信は、かつて加藤が派閥を除名されるきっかけとなった平成研究会(旧竹下派反小沢系)に属したものの、安倍晋三の側近として総理総裁返り咲きに尽力し、安倍の再登板後は内閣官房副長官、厚生労働大臣、党総務会長などの要職を務めている。
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