その後の三浦家
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幕府史料の本格的な編纂以前に家が断絶したために、重成の生没年など基本的な事項についても不明な点が多い。大名に列しているが、本拠地は下総国佐倉(当時の佐倉地域の領有関係・統治体制も諸説あり判然としない。佐倉藩参照)とも、上総国大網ともされてはっきりしない。「下総三浦藩」は姓による仮称である。 寛永4年(1627年)、大網城下にあった方墳寺を「三浦監物」が破却したという記録がある。手を下したのは重成ともされるが、重勝が父の遺領を継いでいたという寛永元年(1624年)以後であることから、この三浦監物は重勝である。 養子の重次は、寛永5年(1628年)に実家の世嗣であった同母兄阿部政澄(正澄)が早世したため、実家に戻って嫡子となり、阿部正次の家(阿部備中守家。当時は岩槻藩主)を継ぐこととなった。なお、重次はその後老中まで昇り、徳川家光に殉死した。重次の次男正春は当初三浦姓を称したが、のちに阿部姓に復し、実家を一時期継いでいる。 寛永8年(1631年)、重勝が病没して三浦監物家は無嗣断絶となった。 重成には重政(平十郎)という二男もいたが、阿部備中守家臣(寛政期には備後福山藩主家)となって代々続いた。また、重成の弟(佐原義成の二男)佐原義勝の系統も阿部備中守家臣として続いている。 重成の別の弟(佐原延兼(義成)の四男)佐原延次の系統が幕府旗本佐原家として存続しており、『寛政重修諸家譜』での三浦監物家のまとまった情報は、旗本佐原家の呈譜の参考情報として、阿部備中守家臣三浦家の系譜を参照したうえで載せられている。
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