その後の両植民地とは? わかりやすく解説

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その後の両植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 05:00 UTC 版)

ケベックの戦い (1690年)」の記事における「その後の両植民地」の解説

10月23日24日捕虜の交換取りきめられ、交換された。そして艦隊ボストン引き揚げた。フィップス自身説明では、彼の軍の戦死傷者30名を超えていないということだったが、天然痘患者と船への砲撃による犠牲者は1,000人を超えたマサチューセッツ植民地当局のジェームズ・ロイドは、翌年1月にこう書いている。「7艘の船、いまだに3艘が見つかっていないが、それらの船は廃棄され焼かれた」またコットン・マザーは、アンティコスティ島で、1艘のブリガンティーン船がどのように難破したのかを語っている。「船の乗員は、ある島で冬を過ごし、その次の夏に、ボストンから来た船に助けられたようである。フィップスの軍は完敗で、しかも壊滅的だった。ケベックでの長引く包囲戦備えて召集された、多くの兵を養う食糧も底を尽きかけていた。フィップス自身経験不足を埋め合わせるための軍事的才能がないことが露呈された。しかしこのことは、よく訓練された兵の不在、そして支援の不十分さが、戦争という大仕事出鼻から挫いてしまうということで、議論余地残した。 ジャック・ル・モインは戦争直後死亡しケベック中が彼の礼儀正しさ武勇偲んで喪に服したオノンダガ族とイロコイ族は、弔意のしるしとして貝殻玉の首飾り贈り恩赦として2人捕虜釈放したジャック兄弟のシャルル・ル・モインは、戦闘中働きで名をあげ、後に軍功によりこの土地賜り初代ロンゲイユ男爵となった両軍がこの戦いから学んだことがあるフランスの勝利は、ケベックを奪うには植民地のでなく「昔ながらイングランド大砲持ち込まれなければならないであろう」。同じくフロンテナックも、防御の一層の改善が必要であることを悟り1692年軍事技師ジョスェ・ベルテロ・ド・ボークールに、ヨーロッパ式包囲戦にも耐えられる城壁設計をさせた。この工事は冬の厳しさで遅れが出て1693年の夏に始まった。町を取り囲む城塞大きな要塞つけられ、壁の上部には木のくいがつけられた。完成直後に、ロイヤルバッテリーと呼ばれる河岸砲台つけられた。小さな要塞のような形をしており、セントローレンス川両岸と川そのものを守るための14銃眼備えていた。 その後フランスポートロワイヤル奪回し先住民の何部族かを味方にした。 1711年連合後のイギリスは、またもケベック攻撃試みるがはかばかしくなかったフランス植民地防御固めたこともあり、その後ケベック奪取は、1759年エイブラハム平原の戦いまで持ち越されることになる。

※この「その後の両植民地」の解説は、「ケベックの戦い (1690年)」の解説の一部です。
「その後の両植民地」を含む「ケベックの戦い (1690年)」の記事については、「ケベックの戦い (1690年)」の概要を参照ください。

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