その後の中葡関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 04:06 UTC 版)
「フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ」の記事における「その後の中葡関係」の解説
ポルトガルと中国の最初の接触は最悪の結末に終わった。しかし1549年には関係が好転し、ポルトガル人は沿岸の海賊の掃討に協力する見返りとして毎年上川島に入って貿易できるようになった。1554年、レオネル・デ・ソウサ(後のマカオの第二代カピタン・モール)が葡中合意を結び、明と良好な関係を築いた。1557年、ついに明政府は、マカオをポルトガル人に永続的かつ公式な貿易拠点として与えた。なお、アンドラーデの北京訪問以降、南洋から到来したヨーロッパの外交使節が北京に到達するのは、イタリア人イエズス会宣教師マテオ・リッチによる1598年の旅を待たねばならない。
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