その後の二十二社とは? わかりやすく解説

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その後の二十二社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 17:23 UTC 版)

二十二社」の記事における「その後の二十二社」の解説

その後平安時代末期には、厳島神社二十二社に加列する動きがあった。『百錬抄』の治承3年1179年2月24日の条によれば厳島神社二十二社加えることについて協議がされており、『玉葉』の治承3年1179年2月7日の条にも、2月24日二十二社加えて厳島神社奉幣するとの記述なされている。この厳島神社を加列する動き平清盛要請よるものと言われており、その様子を『玉葉』および『百錬抄』の治承4年1180年3月19日の条にある高倉上皇厳島神社参詣などに見ることができる。しかし、結果として厳島神社二十二社に加わらなかった。 『摂関時代における神社行政二十二社成立主題として-』では、二十二社確立後の神社行政二十二社偏重に陥り、二十二社に加列していることが新し社格形成する至った述べ上記平清盛による厳島神社加列の動きは、二十二社社格化していったことを示す好例であるとしている。 『二十二社研究史二十二社制』によれば二十二社へは室町時代後期宝徳元年1449年8月23日祈年穀まで朝廷により奉幣がされ、以後奉幣中断したとしている。江戸時代になって300年ぶりに甲子の年にあたる延享元年1744年)に上七社対象とした7社奉幣復興しこの後文化元年1804年)と元治元年1864年)の2度甲子の年にも斎行されたが、本格的な再興を見ることは無かったとしている。この理由同書では、近世において二十二社半数以上は地域郷村鎮守としての信仰位置付けられ、もはや国家的祭祀体系を担う機能喪失していたからだ、と述べている。

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