その後の二十二社
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その後、平安時代末期には、厳島神社を二十二社に加列する動きがあった。『百錬抄』の治承3年(1179年)2月24日の条によれば、厳島神社を二十二社に加えることについて協議がされており、『玉葉』の治承3年(1179年)2月7日の条にも、2月24日に二十二社に加えて厳島神社に奉幣するとの記述がなされている。この厳島神社を加列する動きは平清盛の要請によるものと言われており、その様子を『玉葉』および『百錬抄』の治承4年(1180年)3月19日の条にある高倉上皇の厳島神社参詣などに見ることができる。しかし、結果として厳島神社は二十二社に加わらなかった。 『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』では、二十二社確立後の神社行政は二十二社偏重に陥り、二十二社に加列していることが新しい社格を形成するに至ったと述べ、上記の平清盛による厳島神社加列の動きは、二十二社が社格化していったことを示す好例であるとしている。 『二十二社の研究史と二十二社制』によれば、二十二社へは室町時代後期の宝徳元年(1449年)8月23日の祈年穀まで朝廷により奉幣がされ、以後、奉幣は中断したとしている。江戸時代になって300年ぶりに甲子の年にあたる延享元年(1744年)に上七社を対象とした7社奉幣が復興し、この後も文化元年(1804年)と元治元年(1864年)の2度の甲子の年にも斎行されたが、本格的な再興を見ることは無かったとしている。この理由を同書では、近世において二十二社の半数以上は地域の郷村鎮守としての信仰に位置付けられ、もはや国家的祭祀体系を担う機能は喪失していたからだ、と述べている。
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