その後の人事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 10:08 UTC 版)
大角海相は、1935年(昭和10年)の人事にて、艦隊派とみられていた者も予備役編入としている(なお加藤寛治大将は同年後備役): 枝原百合一中将(海軍兵学校(31期)首席卒業) また、1936年(昭和11年)の人事にて、艦隊派とみられていた者も予備役編入としている: 中村良三大将 小林省三郎中将 艦隊派と条約派との対立構造は緩和へ向かった。伏見宮博恭王軍令部総長も艦隊派への肩入れを弱めた。 条約派ともみなされていた山本五十六は海軍次官に就き(1936年)、日独伊三国同盟の締結時には(1940年)、米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した(海軍左派)。
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