自民党時代
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1983年、大学時代の親友である中川昭一の第37回衆議院議員総選挙出馬に伴い全日空を退社し、北海道で中川の選挙を手伝う。中川の初当選後、郷里の山口県下関市に戻り、山口県議会議員選挙に無所属で出馬して初当選した。当選後、自由民主党に入党。 県議時代は自民党山口県連青年局長を務め、下関市が地盤の安倍晋太郎の薫陶を受け媒酌人も務めてもらった。しかし安倍が死去した後、山口県連内の主導権争い(安倍晋太郎系列、林義郎系列の対立)や晋太郎の後継争い(晋太郎の二男・安倍晋三が擁立された)に巻き込まれ、古賀は自民党を離党し、1993年に新生党入党。
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自民党時代
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1980年12月14日、父の藤井丙午が議員任期中に死去。これに伴って1981年2月1日に行われた参議院岐阜県選挙区補欠選挙に自民党新人として立候補し初当選。1986年7月の参議院議員2期目当選。第3次中曽根内閣で大蔵政務次官。 1989年、衆議院・旧岐阜2区への鞍替えを目論む。ところが同年7月の第15回参議院議員通常選挙で自民党現職の杉山令肇が連合の会公認の高井和伸に敗れたため、非改選だった藤井は鞍替えを断念した。1992年7月に参議院議員3期目当選を果たし、参議院自民党国会対策委員長等の要職を歴任した。 1993年6月18日、参議院議員を辞職し同年7月の第40回衆議院議員総選挙に旧岐阜2区から鞍替え出馬、衆議院議員に当選する。以後4期連続当選。ただし、1996年の小選挙区制導入後は岐阜4区で重複する同じ自民党の金子一義とコスタリカ方式をとり、2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東海ブロックから比例区のみでの立候補者として自民党の1位(単独)で当選した。 1997年9月の第2次橋本改造内閣で運輸大臣、続く衆議院議院運営委員長在任時には、ゼネコン汚職事件で二審有罪判決(懲役1年6ヶ月、追徴金1000万円)が出た中村喜四郎への議員辞職勧告決議の本会議上程の採決が2001年5月18日に委員会で可否同数になった時、委員長決裁で否決とした。 予算委員長などを歴任する。2003年9月には野中広務の支援により、現職の総裁・小泉純一郎の再選を阻止するため、橋本派(平成研究会)の候補として党総裁選に立候補する。しかし、橋本派では藤井の兄貴分である村岡兼造や、参議院の実力者である青木幹雄らが小泉再選を支持し、派閥が分裂、小泉に敗れた。その後の人事で金子が閣僚に就任したことは、小泉による藤井の総裁選出馬への意趣返しとも言われた[要出典]。
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自民党時代
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1993年(平成5年)7月の第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬し、旧鹿児島2区にて初当選。平成研究会(小渕派)に所属した。小選挙区比例代表並立制の導入により、同じ鹿児島3区を地盤とすることになった宮路和明と選挙区調整を行い、1996年(平成8年)は小選挙区、2000年(平成12年)・2003年(平成15年)の総選挙では比例九州ブロック単独で出馬し、4期連続当選。第1次小泉内閣では内閣府副大臣(規制改革、男女共同参画、国民生活、栄典などの担当)を務めた。
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