自民党時代、首相就任までの三木の生活など
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「三木武夫」の記事における「自民党時代、首相就任までの三木の生活など」の解説
三木は赤坂にあった事務所を1963年(昭和38年)に番町に移転する。また三木派では他派に先駆けて夏に別荘のあった軽井沢で二泊三日程度の勉強会を開催するようになった。戦前、アメリカに留学した経験がある三木は、アメリカでの経験を踏まえ、早い時期から勉強会を開催をしたり、終戦後まもなく個人事務所、そして専門家を招請して政策を勉強する総合政策調査会を設けた。総合政策調査会は1963年(昭和38年)にシンクタンクの中央政策研究所となった。 三木の家族は、1951年(昭和26年)に初台から吉祥寺に移っていた。吉祥寺は国会からはかなり離れた場所であり、妻の睦子は1960年(昭和35年)頃、渋谷の南平台に土地を探し、三木に転居を勧めたものの、吉祥寺から渋谷への引っ越しをかたくなに拒んだ。しかしある日突然、三木は妻の睦子に渋谷の南平台への転居を言い出した。睦子は知人を介して建築家の佐藤秀三と知り合い、佐藤に新居となる三木邸の設計を依頼した。 三木が吉祥寺から渋谷の南平台へ引っ越したのは1970年(昭和45年)頃のことであった。引っ越し当日、三木は引っ越しを嫌がり、庭で寝転がりながらふてくされていたという。三木の家の特徴として暖炉が備え付けられていることが挙げられる。機密を要すると判断される書類は、三木が一読した上で暖炉で焼却された。渋谷の南平台の三木邸も、三木の故郷徳島県産の石で作られた暖炉があった。 吉祥寺や渋谷の自宅以外に三木は軽井沢と真鶴に別荘を持っていて、週末はよく真鶴で過ごしていた。軽井沢と真鶴の別荘、そして徳島の実家にもやはり暖炉が備え付けられていて、三木は暖炉で機密書類を燃やしていた。
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