保守新党代表
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2002年、鳩山の党代表辞任を受けての代表選で岡田克也を推すも、岡田は菅に敗れる。菅体制で非主流派に転じた熊谷は、同じ1983年衆院初当選組で自民党時代からの旧知の仲であった保守党幹事長・二階俊博と急接近した。民主党での活動に限界を感じた熊谷と、結党以来国政選挙で勢力を減らす党の状況を打開したい二階の思惑が一致した。同年12月、民主党を離党した熊谷は二階と保守新党を結成、自らは党首である代表となり、与党入りした。なお民主党は熊谷の離党届を受理せず、除名処分とした。 しかし、野党から政権に参加したいがために離党・与党入りしたという批判も重なり、当初目指していた民主党保守系の受け皿となる構想は全く進まず、党勢は伸長しなかった。自民・公明両党に埋没したままで臨んだ2003年の第43回衆議院議員総選挙では、宿敵とする小沢が合流した民主党が躍進、保守新党は惨敗し熊谷自身は自民党からの実質的な支援を受けていた保守系無所属の城内実に敗れ、落選した。1993年からの10年間で7政党を渡り歩いたことから、熊谷は自己保身の権化のような受け止め方をされ、自身が党首を務めていた保守新党は「保身党」などと揶揄されるほどであった。選挙後、運動員による選挙違反に問われ、さらに保守新党そのものも自民党に吸収合併された。熊谷は選挙後、政界から引退した。自民党への吸収合併が決まっていたため、落選後も党首は辞任しなかった。
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