保守政権の下での逼塞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:03 UTC 版)
1950年代後半から60年代前半にかけての数少ない革新首長としては、蜷川虎三京都府知事が挙げられる。蜷川は1950年に革新知事が続々誕生したうちの一人だが、自民党の基盤である中小商工業者や農民を重視する政策をとるなど、支持層の取り込みによって革新府政を維持した。イデオロギーに政策ががんじがらめにされることがなく、京都府議として対峙した野中広務は「生粋の明治人」と評した。また、北海道池田町の丸谷金保町長は、財政破綻した町に十勝ワインの産業を興して財政を立て直し、町おこしの元祖として名をはせる。 一方で国政における社会党は、総評の組織力に支えられており、党内右派の江田三郎が労働組合員以外への支持の浸透を図っていたが、地方支部の活動は活発にならなかった。1960年の安保闘争では岸内閣を総辞職に追い込んだが、党中央は安保闘争にかかりきりで知事選がそっちのけとなり、前後の知事選では連戦連敗、国政でも政権交代はならなかった。江田は1960年に構造改革論を提示して左派の労農派マルクス主義と対峙したが、1962年に提示した「江田ビジョン」を巡って左派との対立が精鋭化し、社会党は深刻な党内対立に陥る。
※この「保守政権の下での逼塞」の解説は、「革新自治体」の解説の一部です。
「保守政権の下での逼塞」を含む「革新自治体」の記事については、「革新自治体」の概要を参照ください。
- 保守政権の下での逼塞のページへのリンク