その後の人生: 数学、鉄道および著作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 06:10 UTC 版)
「エドワード・ポーター・アレクサンダー」の記事における「その後の人生: 数学、鉄道および著作」の解説
アレクサンダーは降伏した後に短期間ブラジル軍に加わって過ごした。若いときのジョージアにおけるプランテーションでの生活をもはや望んでいないことを認識し、サウスカロライナ州コロンビアのサウスカロライナ大学で数学を教え、その後シャーロット・コロンビア・アンド・オーガスタ鉄道(執行最高責任者)、サバンナ・アンド・メンフィス鉄道(社長)およびルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道(社長)の役員を務めた。後の大統領グロバー・クリーブランドと友人になり、多くの時間を鴨猟で過ごした。1897年5月、クリーブランド大統領はアレクサンダーをニカラグアとコスタリカの国境紛争調停者として派遣し、中央アメリカに掘削する可能性のある運河に備えた。アレクサンダーは2年間国境の測量と監督に費やし、両国政府から大きな称賛を得る成果を収め、1899年10月にアメリカに戻った。妻のベティはアレクサンダーがニカラグアにいる時に病気になり、1899年11月20日に死んだ。1901年10月、アレクサンダーはベティの姪であるメアリー・メイソンと再婚した。 アレクサンダーは戦後尊敬される著作家になった。多くの雑誌原稿と2冊の主要な本、『南軍の軍事的回想:批評的物語』(1907年出版)と『南軍のために戦う:エドワード・ポーター・アレクサンダー将軍の個人的回想』(1989年の死後出版)を著した。ジュバル・アーリーやウィリアム・ペンドルトンのような元南軍士官達とは異なり、アレクサンダーは何故南軍が負ける運命になったかについての苦々しい「南部の失われた大義」論争を避け、北軍の圧倒的優位さによるものとしていた。歴史家の多くはアレクサンダーの回想録が南北戦争に関わった個人によって書かれた最も客観的でメリハリのある史料の一つだと見なしている。歴史家デイビッド・J・アイヒャーは『南軍のために戦う』を「リーの作戦に関する多くの分析を伴う優れた個人の物語...将軍、その仲間の士官達および北バージニア軍について劇的で中身を暴露し重要な史料」と呼んだ。他の著作として、『鉄道実務』(1887年出版)および『カットレル、ラットレル(ドッジレル、下手な詩)』(1888年出版)がある。 アレクサンダーはジョージア州サバンナで死に、オーガスタのマグノリア墓地に埋葬されている。
※この「その後の人生: 数学、鉄道および著作」の解説は、「エドワード・ポーター・アレクサンダー」の解説の一部です。
「その後の人生: 数学、鉄道および著作」を含む「エドワード・ポーター・アレクサンダー」の記事については、「エドワード・ポーター・アレクサンダー」の概要を参照ください。
- その後の人生: 数学、鉄道および著作のページへのリンク