その後の人生と死、および評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/12 16:15 UTC 版)
「フランクリン・ピール」の記事における「その後の人生と死、および評価」の解説
ピールがフィラデルフィア造幣所を去った後、当初はどこにも雇われようとしなかった。1864年、長く関わりのあったヘイゼルトン石炭鉄道会社の社長として民間会社に復帰し、1867年までその職に留まっていた。ピールが会長を務めた市民組織としては、ペンシルベニアの音楽財団協会や視覚障害者教導のための機関があった。視覚障害者教導のための機関には1839年にマネジャーに選ばれており、多くの重要な委員会に務め、1863年にはその会長に選ばれ、1870年の死のときまで続けた。1833年からアメリカ哲学会の会員であり、1838年から1845年、および1847年から1870年にはその学芸員の1人となった。ピールの父が設立に協力したペンシルベニア美術アカデミーでは長年の会員であり、引退後の大半でその取締役を務めた。 その晩年、ピールはフィラデルフィアの北にあるデラウェア・ウォーターギャップで秋の日を幾らか過ごし、石器時代の人工物を探し、かなりの集積になった。ピールはその発見物を分類し、説明を加え、その収集品をアメリカ哲学会に遺贈した。アーチェリーの名人でもあり、ユナイテッド・ボウメン・クラブの設立に貢献し、その会員がピールに指示に従って、棺桶を墓場まで担いでいった。その死のときにはスケーター・クラブの会長でもあった。生涯スケートを好み、氷の間に落ち込んだスケーターを救い出す方法を開発して、多くの生命を救った。 1870年、財務長官ジョージ・バウトウェルが、1873年貨幣鋳造法となる造幣局改革のための法案を準備するときに相談した相手の中にピールがいた。ピールは造幣局支配人をフィラデルフィアからワシントンに移動させることを提案した。これが法制化された。1ドル金貨と3ドル貨幣の廃止を支持したが、連邦議会が廃止したのは1890年になってからだった。ピールは近年の貨幣発行(多くは1869年に死んだロングエーカーがデザインしていた)を悪く言い、そのデザインを「みっともなく欠陥があるのでなければ、嘆かわしい限り」と言っていた。 ピールは二度結婚した。最初はエリザ・グレイトレイクとであり、未成年だった1815年に結婚して、娘アンナが生まれ、ピールの死後まで生存した。2度目の結婚は、未亡人で、金持ちのスティーブン・ジラードの姪、キャロライン・ジラード・ハスレムとであり、子供はできなかった。1839年に結婚し、ピールの死のときまで続いた。子供の相手をするのを楽しみ、自らおもちゃを作った。最後の年月は健康が衰えたが、活動を続けることができ、僅かに患っただけで、1870年5月5日、フィラデルフィア市ジラード通り1131の自宅で死んだ。最期の言葉は「これが死ならば、私が望んだ通りだ。全き平和、全き慰み、全き喜びだ」だった。遺体はフィラデルフィア市のローレルヒル墓地に葬られた。 造幣局支配人ヘンリー・リンダーマンは1873年にピールについて、「ピール氏は疑いもなくパターソンその他の者の協力を受けたが、発明や改良は特にピール氏のものである。私はその点についてはどれも疑いを持たない。それらは公共事業にとって計算できないほどの価値があった。」と述べていた。ジョージ・G・エバンスは、その19世紀後半の造幣局の歴史においてピールのことを、「彼の穏やかさ、高潔さ、紳士的物腰と高い道徳性、さらに精神的文化が彼をモデル的な役人にした。」と述べていた。ウォルター・ブリーンはピールを「聡明だが破廉恥だった」と見ていた。バーデットはピールと造幣局へのその効果について、「1830年頃から1855年までの世代で、運営と生産に対する最大の影響は1人の男から来た。ベンジャミン・フランクリン・ピールである。彼は当時の完璧な『機械工』であり、この言葉が想像力あるデザイン、計画、建設、工程の改良に渡るときの機械工である。ピールが造幣局支配人のムーアやパターソンを完璧に支える一方で、造幣局の普通の職員やフィラデルフィアの科学的エリートから高い尊敬を得ていた。彼のアイディアの多くの結果は1世紀以上も継続し、人口の増加が19世紀の工学を現代の貨幣鋳造需要にとって不十分なものにしたときまで続いた。」と記している。ボウワーズに拠れば、「今日のピールは多くの異なるアングルから見られうる造幣局の人々数人の1人である。それぞれの考え方が時として特定の著作家に幅広く異なる結論を出すように導くことになる。 ピールは解任された後、連邦議会に政府のためになした改良や発明の代償として3万ドルを請願した。上院は1858年と1860年の2度、ピールに1万ドルを払う法案を通したが、下院はその票決も拒否した。1870年にも上院に提案されたが、通過しなかった。ピールに1万ドルを保証金として支払う法案は、ピールの死後である1873年3月3日に法制化され、その法は表題に拠ればピールの娘であるアンナ・ピールを救済するためだった。その翌月、ピールの未亡人であるキャロライン・ピールが、故人となった夫の大理石製胸像を造幣局に寄付し、「適当な位置の台座の上に置き、訪問者が眺めるには適した場所とし、後の世代に彼の記憶を伝えるため」と言っていた。タクセイは1966年に、この胸像がどこにあるか確認できなくなっていたと記した。
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