その後の任務および戦後の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 06:05 UTC 版)
「アービン・マクドウェル」の記事における「その後の任務および戦後の経歴」の解説
1864年7月、太平洋方面軍の指揮官を任された。後にカリフォルニア方面軍、第4軍管区(レコンストラクション中のアーカンソー州とルイジアナ州の軍政府)および西部方面軍の指揮官を歴任した。1872年には正規軍の恒久少将に昇進した。1879年、ラザフォード・ヘイズ大統領が始めた査問委員会がフィッツ・ジョン・ポーターの恩赦を推薦する報告書を発行すると、第二次ブルランの戦いでの敗北原因の大半はマクドウェルに帰することになった。この報告書で、マクドウェルは決断が出来ず、適切な相談を怠り、また能力不足で、ポーターの情報要請に対して繰り返し返答を怠り、ロングストリートの部隊配置についてポープへの情報提供を怠り、軍法ではその任務であった北軍左翼の指揮を執ることを怠ったとされていた。 マクドウェルは1882年にアメリカ陸軍から退役し、カリフォルニア州サンフランシスコの公園コミッショナーを務め、1885年に死んだ。サンフランシスコ砦にある国立サンフランシスコ墓地に埋葬されている。
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