倫理争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 05:01 UTC 版)
1937年(昭和12年)2月、明朗会は、日本郵船の運航船が国旗を掲揚しなかった問題をきっかけに、航海科・機関科士官100人以上の乗務拒否によるストライキを実行した。明朗会の要求は、日本主義に基づいた社風の革新で、実質的には浦田格介海務課長の解任を求めるものだった。1月15日の日比和一の請願下船を皮切りに乗務拒否が始まり、2月下旬に本格化した。 直接にストライキの原因とされたのは、前年秋の観艦式中に神戸に在泊していた「野島丸」ほか5隻の日本郵船所属船が、天皇の乗艦する御召艦に対して祝旗掲揚を行わなかった、国旗不掲揚問題である。当時、この問題は他の日本主義団体などの攻撃の対象となっており、明朗会と連絡していた衆議院議員の江藤源九郎らによって、国会でも取り上げられていた。東京朝日新聞も、明朗会の行動を支持する論調の報道を行った。労働条件改善を求めるストライキではなかったため、「倫理争議」と呼ばれた。ただ、争議行為の遠因には、機関士協会基金問題とその後の人事に関して、明朗会と日本郵船経営陣の対立が続いていたという事情があった。 会社側は、対抗措置として士官の上陸禁止を命じるなどしたが、団体交渉の結果、3月15日に会社側が要求を受け入れる形で争議は解決された。海務部の人事異動が実施されたほか、会社側は世間を騒がせたことを陳謝し、日本精神確立のため社内革新と綱紀粛正、問題の再発防止に務める旨、明朗会の精神は諒とすべきも争議が会社に影響したことは陳謝すべき旨の合意文書が作成された。以後、明朗会は会社から活動を公認されるようになった。
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