日独伊三国同盟の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
「日独伊三国同盟」も参照 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより、欧州では第二次世界大戦が勃発した。翌1940年6月にはフランスが短期間で休戦に追い込まれ、西欧と北欧の多くがその占領下となり、ドーバー海峡を挟んだイギリスが連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。これを受け、日本の政府・軍部には、独ソ不可侵条約の締結以来沈滞していたドイツとの関係を強化し、英米と対抗するべきという勢力が再び盛り上がりを見せるようになってきた。 詳細は「仏印進駐」を参照 日本は重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するため、6月19日にフランス領インドシナ(仏印)政府に圧力をかけ、「援蔣仏印ルート」の遮断を要求した。ナチス・ドイツへの敗北後にフランス本国で成立したヴィシー政権との間で9月に協定が結ばれ、紅河以北のインドシナに進駐、中華民国支配地域への攻撃に利用した。これにより日本の対米英関係は緊張した。その後、新たにビルマを経由する「援蔣ビルマルート」が作られた。1940年(昭和15年)7月19日の荻窪会談では、盟主である英国が不在の東南アジア植民地に向かう南進論の方針が確認され、戦争相手は英国のみに局限するが、対米戦も準備する必要があるとされた。7月26日には基本国策要綱が閣議決定された。 7月22日、第2次近衛内閣が成立、7月26日には「皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」という、『基本国策要綱』を閣議決定した。翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。8月1日には松岡洋右外相が談話で「大東亜共栄圏」という用語を初めて用い、その範囲は、日本・満州・中国、仏印、オランダ領東インドも含めるとした。 当初は日独提携に懐疑的であった松岡洋右外相も次第に三国同盟締結派に接近。9月27日にドイツおよびイタリアとの間で三国条約が締結され、日独伊三国同盟が成立した。松岡らはこの同盟政策を発展させ、日独伊、そしてソ連を加えたユーラシアブロックによって米英を牽制しようとしたが、却って英米の日本に対する不信感は一層増すこととなった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を採ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。制裁措置は翌年にはさらに強化され、イギリスも追随した。 これを受け日米開戦が論じられるが、政府と軍部の一部には慎重論も強かった。日本軍は中国戦線と対ソ連警戒に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。 12月29日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは炉辺談話において「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」(en:Arsenal of Democracy) と語り、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法(レンドリース法)を成立させた。1941年3月に開催された米英の軍による協議(通称「ABC会議」)ではまずドイツとイタリアを打倒することを優先し、日本への対処はその次に行うことが合意された。 1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためフランス領南部仏印に進軍し、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。
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