海軍軍人時代
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旧紀州藩士・増田喜三郎の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ、野村正胤の養子となる。1895年(明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校(現在の海城中学校・高等学校)で学び、海軍兵学校(26期、1898年(明治31年))卒業(次席)。以後海軍軍人としての経歴を歩む。海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、1901年(明治34年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリア、ドイツ駐在を経て、在アメリカ日本大使館駐在武官を歴任したほか、パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト海軍次官ら海外の政治家とも親交があった。やがて1926年(大正15年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。 1932年(昭和7年)に第一次上海事変が勃発すると、第三艦隊司令長官となっていた野村は、揚子江上の軍艦による艦砲射撃などで白川義則陸軍大将率いる陸軍の上海派遣軍を側面支援した。上海事変が終結した4月29日、同地で催された天長節祝賀会の最中に上海天長節爆弾事件が起こる。紅白の幕を背に雛壇に並ぶ日本の要人に対し、韓国の独立運動家である尹奉吉が爆弾を投げつけたもの。この事件で野村は右眼を失明、特命全権公使の重光葵は右脚を失い、同席していた白川は瀕死の重傷を負って翌月に死去した。 傷が癒えた野村は、同年10月から2回目の横須賀鎮守府司令長官を務め、翌1933年(昭和8年)3月に大将に親任され、同年11月に軍事参議官に転じる。翌1934年(昭和9年)に勲一等旭日大綬章を受章。1937年(昭和12年)4月に 予備役となる。その後学習院長を務めた。
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海軍軍人時代
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旧制天王寺中学校より東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入校し第33期を首席卒業。同期に卒業順位第26位の豊田副武大将がいるが、大分県出身の副武とは兵学校入学まで面識がなかった他人同士である。苦労人の副武と天才肌の貞次郎はタイプこそ正反対だが、将官に昇進する頃は「両豊田」と呼ばれ、将来を嘱望された。日露戦争が終わったばかりの1905年(明治38年)11月に第33期は卒業し、東南アジア方面へ遠洋航海に出た。少尉~中尉時代は「香取」「弥生」「千歳」に乗艦、砲術・水雷学校普通科をはさんで「敷島」「薩摩」の乗組として腕を磨いた。 1910年(明治43年)大尉昇進と同時に海軍大学校乙種学生、砲術学校高等科で計1年学び、いずれも優等で卒業。翌年にイギリス駐在を命じられる。着任した豊田はオックスフォード大学に留学し、1914年(大正3年)に帰国命令が出るまで2年半にわたって勉学に励んだ。 帰国後は「比叡」分隊長を経て第4戦隊参謀に任じられた。第一次世界大戦末期、ドイツは無制限潜水艦作戦を宣言して輸送船団を無差別攻撃したため、イギリスは日本に輸送船団の護衛隊派遣を依頼した。豊田が在籍する第4戦隊は1917年(大正6年)4月、第3特務艦隊の主力としてシドニーに派遣され、オーストラリア~ニュージーランド間の船団護衛を担い、豊田も参謀に留任してシドニーで指揮を取った。この派遣直前に少佐へ昇進している。 1917年(大正6年)12月、安全が確保されたオーストラリアから第3特務艦隊は撤退し、帰国した豊田は海軍大学校に再入学し、甲種学生として2年間学んだ。この時も中学卒業以来獲得してきた首席卒業を勝ち取り、自他共に認めるエリートとなった。 詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種17期」を参照 卒業後は海軍省の中枢たる軍務局員に任じられ、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)まで3年間務め、完全に幹部養成コースに乗った。この間に中佐へ昇進している。 「金剛」副長を半年務めた後、1923年(大正12年)、海外大使館附武官では首位と目されるイギリス大使館附武官に任じられ、ロンドンに向かった。ロンドン生活は4年間に及び、大佐に昇進している。しかも帰国命令は出ず、国際連盟で開催されているジュネーブ海軍軍縮会議の随員に横滑りしたため、帰国したのは1927年(昭和2年)末である。このように海外生活が非常に長いことから、海外事情は抜群に詳しかったが、国内事情には疎く、軍縮会議の随員たちとは反りが合わないことが多かった。 帰国後、「阿武隈」「山城」の艦長を歴任し、再びロンドン海軍軍縮会議の随員として渡英した。全権・財部彪の発言権は強く、豊田自身は条約の可否に対する主義主張もなかったため、豊田が口出しする余地はなかった。条約が成立して帰国すると少将に昇進し、横須賀鎮守府参謀長を経て1931年(昭和6年)に軍務局長に任じられた。 ところが就任から半年で、豊田は軍務局長を更迭される。その経緯を示す資料は残されていないが、軍令部長に就任したばかりの伏見宮博恭王大将に対して失言したためではないかと推測されている。「大臣になりたい」が口癖のエリートが、初めて挫折を経験した。大学校時代以来、ろくに軍事の学習をしていない豊田に対して宛がわれたのは、専門としていた砲術とはまったく関係のない航空本部であった。1932年(昭和7年)11月の定期異動で豊田は広工廠長に任じられた。誰もがもはや豊田の命脈は尽きたものと思っていた。 しかし、豊田はその地位に不満は持っていたものの、捲土重来の機会を伺うとともに、自らの将来に新たな展望を持つようになっていた。広工廠は先発の造船工場とは異なり、航空機整備を主力とする特殊な軍需工場であった。航空機への理解は徐々に高まりつつあったが、整備に必要な工具や部品も満足に調達できない厳しい環境にあった。現場に叩き落された豊田は、現場の窮状を肌で感じ取り、工業生産力の向上が必要であることを認めた。のちに政治家・経営者として一貫して鉄鋼業の振興に務める豊田の原点となる。 1934年(昭和9年)5月に艦政本部総務部長、1936年(昭和11年)2月に呉工廠長、1938年(昭和13年)11月に航空本部長(1939年(昭和14年)夏に3ヶ月間艦政本部長を兼任)と、12年度の佐世保鎮守府長官を除くと軍事技術の最前線での勤務が続いた。豊田は佐世保鎮守府長官時代に山本五十六海軍次官から次期次官候補として挙げられた。豊田は山本に「私が親補職(佐世保鎮守府長官)にあるからといって、(親補職ではなく宮中では格下にあたる)次官にならぬということはない」という趣旨の返書を送り、山本を鼻白ませた。この時の人事では山本が慰留されたために豊田の次官就任は白紙となったが、次官に最も近いポストである航空本部長・艦政本部長まで復帰することができた。 1940年(昭和15年)9月、豊田の雌伏の時間は終わった。海軍大臣・吉田善吾が病気辞職し、次官・住山徳太郎も退いたため、豊田に念願の次官が回ってきた。最大の懸案事項であった日独伊三国同盟の締結に向け、海軍大臣・及川古志郎を差し置いて活動した。豊田自身は三国同盟を好ましくないと認識していたが、外務省・帝国議会・陸軍が賛成している状況下で海軍が孤立することを警戒していた。同盟成立後、首相・近衛文麿に「海軍全体としては反対だが、国内の調和を優先して政治的にやむなく賛成した。対米英戦に有利になるかどうかは別問題である」と暗に対米交渉の責任は外務省と政府の責任であることを告げた。まさかその外務大臣の椅子に自身が座ることになるとは、当時の豊田は夢想だにもしなかった。 次官在任中は、次官室に歴代次官の肖像や名札を陳列し、自らの名もその末尾に連らねさせたが、井上成美はこれを「さながらナチスの第五列の如し」と皮肉り呆れている。また及川を差し置いて自らのもとで政務に関する案件を決裁してしまうことも多く、こうした行き過ぎた自己顕示欲は「豊田大臣、及川次官」という陰口となって跳ね返ってくることになった。念願の次官だっただけに、その職への執着もまた人一倍強く、内閣改造が取り沙汰されるようになりはじめると、今度はあからさまな留任工作を行った。しかし改造当日、副官らの前で「大臣は代わるが、俺は代わらないから」と豪語した直後に次官更迭の報を受け面目丸潰れとなってしまった。同じ頃、山本五十六がそろそろ潮時と連合艦隊長官を辞めたい旨を及川大臣に対して表明、「後任には古賀峯一か嶋田繁太郎、若返りを図るなら豊田副武か豊田貞次郎を推す」と書き送っている。もちろん前の二人が本命で、後の二人はどうせ名が上がるだろうからと付け足した諧謔である。
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海軍軍人時代
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日露戦争において、浅間に第一分隊長として乗艦。仁川沖海戦に参加した。 1904年(明治37年)、連合艦隊第六艦隊に所属、旅順港口閉塞作戦に水雷艇付としての武勲により功五級金鵄勲章受賞。 1908年(明治41年)、陸奥湯長谷藩の第13代藩主であった内藤政養の次女、房子と結婚。 1918年(大正7年)、戦艦伊勢の水雷長。1921年(大正10年)、敷設艦勝力の艦長を務める。 1923年(大正12年)、予備役に編入される。
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海軍軍人時代
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1896年(明治29年)11月、海軍兵学校へ入校。沖縄県出身者として初。席次は123名中、4番の成績であった。1899年(明治32年)12月、海軍兵学校を卒業。卒業者113名中、3番の成績で、恩賜の双眼鏡が授与された。 1900年(明治33年)7月 約6ヶ月の遠洋航海を終え横須賀に帰港。「橋立」乗組となる。その後、「金剛」「磐手」の航海長をつとめる。 1905年(明治38年)、第三戦隊所属の巡洋艦「音羽」に乗り組み日本海海戦に参加。 1906年(明治39年)、海大乙種学生を卒え、翌年、海大航海術専修学生(のちの航海学校高等科学生)を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜される。その後、兵学校教官兼監事を命ぜられ、35期から38期までを教える。この生徒の中に、南雲忠一などがいた。 1909年(明治42年)、「宗谷」「阿蘇」二艦の練習艦隊で、旗艦「宗谷」の航海長兼指導教官として参加、北太平洋を航海する。 1910年(明治43年)、少佐に進み、海大甲種学生となる。その頃、尚泰侯爵の五女政子と結婚する(漢那33歳、政子18歳)。 1914年(大正3年) 海軍軍令部参謀兼海軍大学校教官となり、まもなく中佐に進級。同年、第一次世界大戦が勃発。この頃教えた甲種学生の中には、山本五十六などがいた。 1916年(大正5年)5月、大戦下の欧州視察を命ぜられ、約11ヶ月を費やして、ロシア、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スイス、アメリカの7ヶ国をつぶさに視察。 大正6年(1917年)12月、「対馬」艦長に補せられる。 大正7年(1918年)、大佐に進級し、同年12月、軍令部参謀(軍令部第四課長)に補せられる。
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