海軍軍人時代とは? わかりやすく解説

海軍軍人時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:06 UTC 版)

野村吉三郎」の記事における「海軍軍人時代」の解説

紀州藩士・増田喜三郎三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ野村正胤の養子となる。1895年明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了上京後海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校現在の海城中学校・高等学校)で学び海軍兵学校26期、1898年明治31年))卒業次席)。以後海軍軍人として経歴歩む海兵教官、「千歳航海長などを歴任した後、1901年明治34年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリアドイツ駐在経て、在アメリカ日本大使館駐在武官歴任したほか、パリ講和会議ワシントン軍縮会議全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト海軍次官海外政治家とも親交があった。やがて1926年大正15年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した1932年昭和7年)に第一次上海事変勃発すると、第三艦隊司令長官となっていた野村は、揚子江上の軍艦による艦砲射撃などで白川義則陸軍大将率い陸軍の上派遣軍を側面支援した上海事変終結した4月29日同地催され天長節祝賀会最中上海天長節爆弾事件が起こる。紅白の幕を背に雛壇に並ぶ日本要人対し韓国の独立運動家である尹奉吉爆弾投げけたもの。この事件野村右眼失明特命全権公使重光葵右脚失い同席していた白川瀕死の重傷負って翌月死去した。 傷が癒えた野村は、同年10月から2回目横須賀鎮守府司令長官務め、翌1933年昭和8年3月大将親任され、同年11月軍事参議官転じる。翌1934年昭和9年)に勲一等旭日大綬章受章1937年昭和12年4月予備役となる。その後学習院長務めた

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海軍軍人時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 21:02 UTC 版)

豊田貞次郎」の記事における「海軍軍人時代」の解説

旧制天王寺中学校より東京外語学校英語科経て海軍兵学校入校し第33期を首席卒業同期卒業順位26位の豊田副武大将がいるが、大分県出身の副武とは兵学校入学まで面識がなかった他人同士である。苦労人の副武と天才肌貞次郎タイプこそ正反対だが、将官昇進する頃は「両豊田」と呼ばれ将来嘱望された。日露戦争終わったばかりの1905年明治38年11月に第33期は卒業し東南アジア方面遠洋航海出た少尉中尉時代は「香取」「弥生」「千歳」に乗艦砲術水雷学校普通科はさんで敷島」「薩摩」の乗組として腕を磨いた1910年明治43年大尉昇進同時に海軍大学校乙種学生砲術学校高等科で計1年学びいずれも優等卒業翌年イギリス駐在命じられる着任した豊田オックスフォード大学留学し1914年大正3年)に帰国命令が出るまで2年半にわたって勉学励んだ帰国後は「比叡分隊長経て第4戦隊参謀任じられた。第一次世界大戦末期ドイツ無制限潜水艦作戦宣言して輸送船団無差別攻撃したためイギリス日本輸送船団護衛隊派遣依頼した豊田在籍する第4戦隊1917年大正6年4月第3特務艦隊主力としてシドニー派遣されオーストラリアニュージーランド間の船団護衛担い豊田参謀留任しシドニー指揮取った。この派遣直前少佐昇進している。 1917年大正6年12月、安全が確保されオーストラリアから第3特務艦隊撤退し帰国した豊田海軍大学校再入学し、甲種学生として2年学んだ。この時も中学卒業以来獲得してきた首席卒業勝ち取り自他共に認めるエリートとなった詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種17期」を参照 卒業後は海軍省中枢たる軍務局員に任じられ1920年大正9年)から1923年大正12年)まで3年務め、完全に幹部養成コース乗ったこの間中佐昇進している。 「金剛副長半年務めた後、1923年大正12年)、海外大使館附武官では首位目されるイギリス大使館武官任じられロンドン向かったロンドン生活は4年間に及び、大佐昇進している。しかも帰国命令出ず国際連盟開催されているジュネーブ海軍軍縮会議随員横滑りしたため、帰国したのは1927年昭和2年)末である。このように海外生活が非常に長いことから、海外事情抜群に詳しかったが、国内事情には疎く軍縮会議随員たちとは反りが合わないことが多かった帰国後、「阿武隈」「山城」の艦長歴任し、再びロンドン海軍軍縮会議随員として渡英した。全権財部彪発言権強く豊田自身条約可否対す主義主張もなかったため、豊田口出しする余地はなかった。条約成立して帰国する少将昇進し横須賀鎮守府参謀長経て1931年昭和6年)に軍務局長任じられた。 ところが就任から半年で、豊田軍務局長更迭される。その経緯を示す資料残されていないが、軍令部長就任したばかりの伏見宮博恭王大将に対して失言したためではないか推測されている。「大臣なりたい」が口癖エリートが、初め挫折経験した大学校時代以来、ろくに軍事学習をしていない豊田に対して宛がわれたのは、専門としていた砲術はまったく関係のない航空本部であった1932年昭和7年11月定期異動豊田広工廠長に任じられた。誰もがもはや豊田命脈尽きたものと思っていた。 しかし、豊田はその地位に不満は持っていたものの、捲土重来機会を伺うとともに、自らの将来新たな展望を持つようになっていた。広工廠先発造船工場とは異なり航空機整備主力とする特殊な軍需工場であった航空機への理解徐々に高まりつつあったが、整備必要な工具部品も満足に調達できない厳しい環境にあった現場叩き落され豊田は、現場窮状肌で感じ取り工業生産力の向上が必要であることを認めた。のちに政治家経営者として一貫して鉄鋼業振興務め豊田原点となる。 1934年昭和9年5月艦政本部総務部長1936年昭和11年2月呉工廠長、1938年昭和13年11月航空本部長1939年昭和14年)夏に3ヶ月艦政本部長兼任)と、12年度の佐世保鎮守府長官を除くと軍事技術最前線での勤務続いた豊田佐世保鎮守府長官時代山本五十六海軍次官から次期次官候補として挙げられた。豊田山本に「私が親補職佐世保鎮守府長官)にあるからといって、(親補職ではなく宮中では格下にあたる)次官にならぬということはない」という趣旨返書送り山本鼻白ませた。この時の人事では山本慰留されたために豊田次官就任白紙となったが、次官最も近いポストである航空本部長艦政本部長まで復帰することができた。 1940年昭和15年9月豊田雌伏の時間は終わった海軍大臣吉田善吾病気辞職し次官住山徳太郎退いたため、豊田念願次官回ってきた。最大懸案事項であった日独伊三国同盟の締結に向け、海軍大臣及川古志郎差し置いて活動した豊田自身三国同盟好ましくない認識していたが、外務省帝国議会陸軍賛成している状況下で海軍孤立することを警戒していた。同盟成立後首相近衛文麿に「海軍全体として反対だが、国内調和優先して政治的にやむなく賛成した対米英戦に有利になるかどうか別問題である」と暗に対米交渉責任外務省政府責任であることを告げた。まさかその外務大臣椅子自身が座ることになるとは、当時豊田夢想だにもしなかった。 次官在任中は、次官室に歴代次官肖像名札陳列し、自らの名もその末尾に連らねさせたが、井上成美はこれを「さながらナチス第五列如し」と皮肉り呆れている。また及川差し置いて自らのもとで政務に関する案件決裁してしまうことも多くこうした行き過ぎた自己顕示欲は「豊田大臣及川次官」という陰口となって跳ね返ってくることになった念願次官だっただけに、その職への執着もまた人一倍強く内閣改造取り沙汰されるようになりはじめると、今度あからさまな留任工作行った。しかし改造当日副官らの前で「大臣代わるが、俺は代わらないから」と豪語した直後次官更迭の報を受け面目丸潰れとなってしまった。同じ頃、山本五十六がそろそろ潮時連合艦隊長官辞めたい旨を及川大臣に対して表明、「後任には古賀峯一嶋田繁太郎若返りを図るなら豊田副武豊田貞次郎推すと書き送っている。もちろん前の二人本命で、後の二人はどうせ名が上がるだろうからと付け足した諧謔である。

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海軍軍人時代

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堀内宗平」の記事における「海軍軍人時代」の解説

日露戦争において、浅間第一分隊長として乗艦仁川沖海戦参加した1904年明治37年)、連合艦隊第六艦隊所属旅順港閉塞作戦水雷艇としての武勲により功五級金鵄勲章受賞1908年明治41年)、陸奥湯長谷藩第13代藩主であった内藤政養次女房子結婚1918年大正7年)、戦艦伊勢水雷長。1921年大正10年)、敷設艦勝力艦長務める。 1923年大正12年)、予備役編入される

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海軍軍人時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:50 UTC 版)

漢那憲和」の記事における「海軍軍人時代」の解説

1896年明治29年11月海軍兵学校入校沖縄県出身者として初。席次123名中、4番成績であった1899年明治32年12月海軍兵学校卒業卒業者113名中、3番成績で、恩賜双眼鏡授与された。 1900年明治33年7月 約6ヶ月遠洋航海終え横須賀帰港。「橋立」乗組となる。その後、「金剛」「磐手」の航海長をつとめる。 1905年明治38年)、第三戦所属巡洋艦音羽」に乗り組み日本海海戦参加1906年明治39年)、海大乙種学生を卒え、翌年海大航海術専修学生(のちの航海学校高等科学生)を首席卒業恩賜の銀時計下賜される。その後兵学校教官監事を命ぜられ、35期から38期までを教える。この生徒中に南雲忠一などがいた。 1909年明治42年)、「宗谷」「阿蘇」二艦の練習艦隊で、旗艦宗谷」の航海長指導教官として参加北太平洋航海する1910年明治43年)、少佐進み海大甲種学生となる。その頃尚泰侯爵の五女政子結婚する漢那33歳政子18歳)。 1914年大正3年海軍軍令部参謀兼海大学校教官となり、まもなく中佐進級同年第一次世界大戦勃発この頃教えた甲種学生中には山本五十六などがいた。 1916年大正5年5月大戦下欧州視察を命ぜられ、約11ヶ月費やしてロシアスウェーデンイギリスフランスイタリアスイスアメリカの7ヶ国をつぶさに視察大正6年1917年12月、「対馬艦長に補せられる大正7年1918年)、大佐進級し同年12月軍令部参謀軍令部第四課長)に補せられる

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