横須賀鎮守府参謀長
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1935年(昭和10年)8月1日、再び横須賀鎮守府付となる。少将進級直前である6年目の大佐が現職を離れるのは異例だった。11月15日、海軍少将に進級(慣例通りクラスヘッドとして同期で最初の少将)し、横須賀鎮守府参謀長となる。12月1日、米内光政が横須賀鎮守府司令長官に着任した。この頃に井上は米内の信頼を得て以降、米内の下で活躍することになる。 詳細は「二・二六事件」を参照 海軍省が所在する東京府を管轄し、麾下に実戦部隊を有している横須賀鎮守府(以下、横鎮)の参謀長となり、海軍省を『海軍の兵力』で守る対策を十分に準備できる立場となった井上は、長官・米内の承認を得ていざという時、即座に十分な「海軍の兵力」を東京の海軍省に差し向けられるように下記のように準備した。 横鎮所属の兵員で特別陸戦隊一個大隊を編成して、2回召集し、顔合わせと訓練を行った。 万一の時には海軍省に派遣し、大臣官房の走り使いや連絡に当たらせ、または小銃を持たせて海軍省の警備に当たらせるべく、横須賀所在の海軍砲術学校に要請して、砲術学校に所属する掌砲兵20人をいつでも横鎮に呼集できるように準備した。 いかなる場合でも、特別陸戦隊一個大隊を東京の海軍省に急派するため、横鎮所属の警備艦である軽巡洋艦那珂艦長に昼夜雨雪を問わず、芝浦に急行できるよう研究を命じた。 これらの真の目的を知るのは、米内・井上・先任参謀の横鎮トップ3名のみだった。 井上は横鎮に着任すると、庁舎内に記者控室を作ってそこに参考図書を備えるなど、新聞記者に便宜を図った。1936年(昭和11年)2月20日頃、出入りの新聞記者から、東京の警視庁の前で陸軍が夜間演習を行ったという情報が井上に入る。井上は警戒態勢に入り、2月26日早朝、官舎で就寝中の井上に副官から電話が入った。「新聞記者から、本日早朝に陸軍が反乱を起こしたという情報が入った」という二・二六事件勃発の知らせだった。井上は、幕僚全員を鎮守府に非常召集するよう命じて、自分も直ちに登庁した。井上が、横鎮に着くと、既に幕僚たちは全員揃っていた。副官から詳細な情報を聴いた上で、かねて用意の手を打った。 横鎮砲術参謀を自動車で、東京へ実情実視に急派。 横鎮から海軍砲術学校所属の掌砲兵20人を海軍省に急派。 特別陸戦隊一個大隊用意。軽巡洋艦木曽急速出港用意。 横鎮麾下各部隊は自衛警戒。 井上の事前準備が功を奏し、全ての措置は混乱なく実施された。。 午前9時近く、長官官舎の米内から「俺も出て行った方がいいか」と電話がかかってきた。井上は「当面の手は全て打ちましたが、やはり長官が鎮守府においでの方がよろしいでしょう」と返答した。登庁した米内は、井上に陸軍反乱部隊が宮城を占領したらどうすべきか問うた。井上は「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を比叡(横鎮所属)においで願いましょう。その後、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを言っても、海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく(陛下に)軍艦に乗って頂ければ、もうしめたものだ」と即答した。特別陸戦隊一個大隊を乗せた木曽の出港寸前に、軍令部から「待った」がかかった。警備派兵には手続が要り、横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのにも、軍令部総長が天皇の命令を伝達する形式を踏まねばならないという内容だった。軍令部は「横須賀鎮守府特別陸戦隊(曩<さき>に派遣のものを合せ四(個)大隊を基幹とす)を東京に派遣し海軍関係諸官庁の自衛警戒に任じしめらる」という命令を出した。この時点で横鎮が用意していた特別陸戦隊は一個大隊だったので、三個大隊を追加編成する必要が生じた。そのため、佐藤正四郎大佐が指揮する横鎮特別陸戦隊4個大隊は、その日の午後遅くにようやく東京・霞か関の海軍省(2012年現在の農林水産省本庁舎の場所)に到着した。井上にとっては不本意であったが、結果として特別陸戦隊4個大隊(2,000余名)を編成・派遣したことで、陸軍反乱部隊(歩兵のみで1,500名程度)と同規模の陸戦兵力を海軍省に配備することができた。 戦後、井上は二・二六事件当時の軍法によると、横鎮の所管区域である「神奈川県・東京府の海岸海面」上で横鎮麾下の警備艦を行動させるのは横鎮長官の権限で実施できた。ただし、海軍省警備のために陸戦隊を芝浦に上陸させるのは、「陸上」は横鎮の所管区域ではないため、横鎮長官の権限を越えたかもしれない。これは、横鎮長官の有する「警備」権限の解釈、すなわち『鎮守府令』第2条「鎮守府は所管海軍区の警備に関することを掌り」の解釈の問題である。結果としては軍令部の干渉に屈してしまったが、「木曽」を芝浦に回航するのは、軍令部が何を言おうが、横鎮長官の権限で出来たのだから、直ちにやるべきだった、と悔やんでいる。井上が、海軍省軍務局一課長時代に、生命と職を賭して反対した「省部事務互渉規程の改訂」により、改訂前は海軍大臣の管轄だった「国内警備艦戦部隊の派遣」に干渉できるようになっていた軍令部が、横鎮の素早い動きに待ったをかけたのは、井上の軍務局一課長時代の危惧が当たったことになる。 11月16日、軍令部出仕兼海軍省出仕に転じ、兵科機関科将校統合問題研究従事。海軍大臣・永野修身大将の特命によって、海軍の長年の懸案だった「兵科将校と機関将校の一系化 (兵機一系化)」問題の解決に専念した。1937年(昭和12年)、井上は「兵科将校と機関科将校の両方の勤務をこなす少尉候補生の育成には、現在の兵学校・機関学校の修業年限4年でも不足。4年の修業年限を維持するなら、一系化を促進すべし」という答申書を、海軍次官・山本五十六に提出した。
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