医官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/18 06:44 UTC 版)
「リュドヴィク・サヴァティエ」の記事における「医官として」の解説
横須賀製鉄所 (後の横須賀造船所)の首長に任命されたレオンス・ヴェルニーは、製鉄所のフランス人技師が急病になった際、既にあった横浜のフランス病院まで行くには間に合わないため、製鉄所で医師を雇うことを主張した。医師であるのみならず、植物学の知識もあることから日本の殖産にも貢献し得る、との理由で、当時ロシュフォール造船所海軍一等医官であったサヴァティエを推薦した。サヴァティエは年俸5千ドルで (ヴェルニーは1万ドル) 横須賀製鉄所に雇われ、1868年から1871年まで日本に滞在した。静養を理由に一時帰国した後、1873年から1876年に再度滞日した。経費節減のために、高給取りであった、造船所のいわゆるお雇い外国人の削減を目指した明治政府は、サヴァティエをヴェルニーらと共に、1875年12月31日付で解雇した。 サヴァティエはフランス人のみならず、日本人も診療した。これには周辺の住民らも診療し、また横須賀村の通称「ラシャメン村」の売春婦らを性病予防の観点から検診したりもした事も含まれる。これらは当時としては特筆される事として感謝され、その事は後の明治天皇からの勅語でも触れられている。 植物学の知識を生かした、艦材の鑑定も職務の一つであった。 サヴァティエの官舎はヴェルニーの官舎に近い、丘の上にあり、後に横須賀鎮守府参謀長の官舎として使われた。サヴァティエの診療所は官舎の隣にあった。 サヴァティエは下関戦争などにも従軍し、日本の内線状態を手紙でフランスに紹介している。 サヴァティエは明治天皇との接点が何回かある。明治5年の横須賀造船所への行幸は、横浜の写真館を経営するオーストリア人ラインムント・フォン・スティルフリートが隠し撮りをしたが、その写真では三条実美やヴェルニーらと共に姿が見える。 明治8年の行幸は初の国産軍艦の清輝の進水式に臨むためであったが、この際にはヴェルニーと共に白紋縮緬を与えられている。横須賀造船所を解雇される前にも、ヴェルニーと共に明治天皇に謁見している。この時は勅語で働きを労われ、対して奉答文を呈上した。
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