医専時代(1901 - 23年)
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「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「医専時代(1901 - 23年)」の解説
1901年(明治34年)4月1日 - 第五高等学校から医学部が独立し、長崎医学専門学校となる。初代校長は田代正。本科のほか薬学科を設置。 12月 - 山里村に本部・薬局・診療所が完成し、県立長崎病院が移転。 1902年(明治35年)4月 - 県立長崎病院の開院式を挙行。 1903年(明治36年)10月 - 県立長崎病院に附属看護婦養成所(養成期間1年間)を設置。 1916年(大正5年)12月18日 - 斉藤茂吉が長崎医専精神科教授となり、単身赴任。(1921年(大正10年)3月16日まで) 1920年(大正9年)- 大学令による医専の大学昇格が決定。 1922年(大正11年)4月1日 - 県立長崎病院が国に移管され、長崎医学専門学校附属病院と改称し、附属看護婦助産婦養成所を設置。 1923年(大正12年)3月31日- 長崎医学専門学校が廃止。
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医専時代
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1928年(昭和3年)4月、帝国女子医学専門学校に進学。夏休みが終わると、学生運動や当時すでに非合法とされた社会科学の研究会に参加する。また、秋にはエスペラント語のサークルを結成している。 1929年(昭和4年)、2年次に進級した良は学内の日本共産青年同盟(共青)班で一番の活動家となっていた。だがこの年に起きた四・一六事件によって共産党中央組織が壊滅したため、活動の中心課題は工場内に共青班をつくることに移行した。10月から翌年1月にかけて、良はカンパ資金を街頭で党員に手渡す任務を担っている。また、下宿に同志をかくまってもいた。 1930年(昭和5年)、3年在籍時に退学処分を受ける。このころの良の活動はすでに学外が中心で、青森無産青年同盟に共青の準機関紙『無産青年新聞』を送付していた。退学後は目黒駅近くに下宿して横浜の紡績保土ヶ谷工場の女工となり、日本労働組合全国協議会(全協)日本繊維労保土ヶ谷分会を組織する。
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