高知・熊本時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 16:11 UTC 版)
大塚敬節は、明治33年(1900年)2月25日、高知県高知市に産まれる。大塚家は、同市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院であり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮とも医師であった。敬節は、西洋医学が嫌いであったため、中学卒業後はじめは医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。しかし、これにも興昧が持てず、熊本県立医学専門学校(現熊本大学医学部の前身)に入りなおした。熊本医専を選んだのは、入試に得意な国語と漢文があったのが当時の医学校では同校だけだったことによる。敬節は、辻潤に傾倒した文学青年で、中学時代には高知新聞の新聞小説に当選し135回の連載を掲載されているが、医専時代も文学に没頭し詩集などを発表している。医専卒業後、高知の武田病院に勤務したが、1923年秋に父が亡くなったため家業の医院を継ぐ。
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