高知師範教師から学生復帰(1918-1924)
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1918年(大正7年)4月、高知県師範学校(高知師範、現・高知大学教育学部)の教諭兼舎監に着任した。当時21歳であった戸倉は、袴姿に編み上げの靴を履いて颯爽と歩いていたことから注目を浴び、セーラー服にブルマーを身に着けて体操の授業を行い、女学生の憧れの的となった。生徒は戸倉の服装をまねただけでなく、戸倉のような体操教師になろうと戸倉の母校・東京女高師を目指す者も出現した。この頃の教え子に村上繁・河井富美恵がいる。 高知師範で教えたのは、恩師・二階堂直伝の新しい体操やダンスで、指導力の高さから高知県各地より講習会の依頼が届き、土日も休まず体操指導に明け暮れた。戸倉が課した体操は、当時の女子体育の相場からは考えられないほどのハードな運動量であったという。この頃の高知師範は、当時の日本国内では珍しい男女共学であったため、戸倉の活躍に男子体育担当の山本芳松らが発奮し、後に日本体育界を代表する宮畑虎彦、鶴岡英吉、今村嘉雄らを輩出した。 1922年(大正11年)4月、もう一度専門的に体操科を学び、自信を持って指導したいという思いから、高知師範を辞して東京女高師研究科に入学した。東京女高師に戻った時、永井はまだ在籍していたが、二階堂は永井と対立して東京女高師を退職し、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を創立したところであった。2人の恩師の対立に心を痛めた一方で、温順な性格から、どちらに対しても学生であるという姿勢を取った。戸倉は永井に同行して「学校体操教授要目」の普及活動を手伝い、永井を守るように援助したことから、永井から「唯一の愛弟子」と見なされた。 研究科では、友人と帝国劇場へアンナ・パヴロワの「瀕死の白鳥」の公演を見に行って感銘を受けたり、ワルター・ブラントから動物の模倣体操を習ったりした。ここで永井から幼児の体育を研究することを勧められ、卒業論文「子供のダンス」を書き上げて1924年(大正13年)3月に修了した。
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