文学青年
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文学青年(ぶんがくせいねん)とは文学を好む青年のことである[1]。なお文学青年と言われるようになった明治時代は「少年」と「青年」が未分化だった状態から分化していく時代となっていた[2]。
学校では東京大学予備門の学生による初期の『我楽多文庫』(1885年、硯友社派)のような回覧雑誌ないし非買本[3]を始め、東京専門学校文学科の関係者による『早稲田文学』(1891年、稲門派)[4]、東京帝国大学文科大学の関係者による『帝国文学』(1894年、赤門派[注 1])[6]、慶應義塾大学文科の関係者による『三田文学』(1910年、三田派)[7]のような雑誌が登場した。
また地方の文学青年向けでは『秀才文壇』(1901年)、『女子文壇』(1905年)、『文章世界』[注 2](1906年)のような文芸投稿雑誌が登場した[9]。
その他、絵葉書の投稿雑誌『ハガキ文学』(1987年) も存在し、文学青年に好かれていたとされる[8]。
文学青年に関する作品
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文学青年を冠する小編では黄金冠(野中賢三)『初めて出京したる一文學靑年の日記』(『文章世界 第五巻第十六号』、1910年)[10]、三日潮『一文學靑年の懺悔』(『新潮 第十八巻第六号』、1923年)[11]などが存在した。
また探偵小説では1933年の夢野久作の中編小説『氷の涯』が探偵趣味の文学青年を主人公としていた。
注釈
出典
- ^ 文学青年 コトバンク
- ^ 伊東久智「日清戦後における青年雑誌の自律化過程―創刊期『中学世界』における読者層の交錯を手がかりとして」 『出版研究 (38)』 2008年3月20日
- ^ 我楽多文庫 コトバンク
- ^ 早稲田文学 コトバンク
- ^ 藤村作 編『日本文学大辞典 1』 p.19 新潮社 1934年10月 [1]
- ^ 帝国文学 コトバンク
- ^ 三田文学 コトバンク
- ^ a b 『出版販売小史 : 東販創立十周年記念』 p.88 東京出版販売 1959年 [2]
- ^ 徳田秋声『徳田秋聲全集 第21巻 随筆・評論3 大正15年~昭和6年』 p.143 (「アルス婦人講座」 1927年1月31日)八木書店 2001年 ISBN 978-4840697217
- ^ 『学苑 (234)』 昭和女子大学 光葉会 1959年9月 [3]
- ^ 小田切進 編『現代日本文芸総覧 下巻』 明治文献 1972年 [4]
文学青年
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「山下三郎 (実業家)」の記事における「文学青年」の解説
神奈川県横浜市に、「泥亀」、「船成金」などと称された山下汽船の創業者・山下亀三郎の次男として生まれる。 慶應義塾大学に学び、在学中には川端康成、室生犀星らと交わり、同人誌に短編小説発表するなどして、文学者としての将来を期待されたが、1931年に法学部を卒業すると、父の命に従い山下汽船に入った。北原武夫らと文芸誌『新三田派』を創刊したが、直後に渡仏した。山下の文筆活動は、卒業後もしばらく続き、1938年には短編集『室内』が出版された。 山下と文学者たちとの交わりも続き、1938年10月から翌年3月にかけては、軽井沢を引き払って来た堀辰雄が、鎌倉に定住するまでの時期を、山下の逗子の別荘を借りて過ごしていた。
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