文学面での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:07 UTC 版)
本作品はベストセラーとして作者の知名度を大きく高めたが、その文学的形式を既存のジャンルに分類しがたい点ではきわめて異色である。通例「小説」に分類される(作中にもそのような記述がある)が、物語性を前面に出す作者の通例の作風とは一線を画しており、一貫したプロットに沿った主人公も登場人物も存在しない。一方「ノンフィクション」に分類することも不可能ではないが、途中から一種の「狂言回し」として登場する「横丁の御隠居」の存在や、専門家に取材する作者の「えーと、何も分かりません」という「カマトト」ぶりなどは事実とは考えにくく、ノンフィクションの手法をはずれた部分も大きい。 こうした作品が「朝日新聞」の「小説欄」に連載されたこと自体が当時としては画期的な出来事であり、連載開始当時終わって間もなかった参院選における市川房枝応援の裏話から話が始まっていることも含めて、読者の注意をひく効果を十分に計算したものであった。作者は連載にあたって学芸部に「必ず多くの読者を掴まえてみせる」と言い切ったとあとがきで述べており、また読者に難しいテーマの話を関心をもって読み続けてもらうよう特に工夫したとも述べていて、自信のほどをうかがわせる。 しかし、こうした型破りな表現形式については賛否両論があり、特に冒頭の参院選の話が途中でとぎれてしまう点については、「構成の破綻」だとするなどの厳しい批評が多い。一方、これまで作者の作品を認めてこなかった『群像』編集長大久保房男が「有吉佐和子がついに純文学を書いた」と語ったという説もあり、文芸評論家の評価は一定していない。 作者は『恍惚の人』及び本作品によって最も知られており、「社会派」的作家というイメージが強い。しかし、あとがきにある「日本文学古来の伝統的主題であった『花鳥風月』が危機にさらされているとき、一人の小説書きがこういう仕事をしたのがいけないという理由など、あるでしょうか」ということばからは、作者が一貫してもっていた日本の歴史・伝統への関心と愛着が発想の底流に維持されていることが読み取れる。一方、作者にとって本作品は紀行文『女二人のニューギニア』を除き、長編でははじめて「私」(作者自身)を語り手とした一人称「小説」であり、『有吉佐和子の中国レポート』などその後のルポルタージュへとつながる転換点でもある。
※この「文学面での評価」の解説は、「複合汚染」の解説の一部です。
「文学面での評価」を含む「複合汚染」の記事については、「複合汚染」の概要を参照ください。
- 文学面での評価のページへのリンク