文学青年らとの出会いとは? わかりやすく解説

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文学青年らとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)

梶井基次郎」の記事における「文学青年らとの出会い」の解説

1919年大正8年9月三高理科甲類入学した次郎は、同校一緒に進んだ北野中時代友人ら(宇賀康、中出丑三、矢野繁)と交遊。彼らの下宿廻った矢野持っていた蓄音機でクラシックレコードをかけてヴァイオリン弾きみんなで楽譜片手オペラを歌うなど楽しい時を過ごした。 基次郎下宿長屋狭く重病人の老人がいたため、10月からは寄宿舎北寮第5室に入った部屋1階学習室、2階寝室となっており、同室には室長ラグビー部2年生逸見重雄、文乙(ドイツ語必修)の中谷孝雄三重県一中出身)と、文丙(フランス語必修)の飯島正がいて、文丙の浅野晃もしばしば部屋にやって来た。東京一中(現・東京都立日比谷高等学校出身飯島浅野同校回覧雑誌リラの花』を作っていた文芸仲間であった。 基次郎中谷孝雄飯島正浅野晃文学談義耳を傾けていたが、難しくてついていけなかった。この頃ロシア大歌劇団来日公演があった。宇賀康は行ったが、券を買う金がない基次郎仕方なく寮の中で『カルメン』や『ファウスト』を朗々と歌った。しかし11月頃から次第憂鬱になり、授業興味失っていった基次郎は、学校をさぼって銀閣寺散歩したり、美術展行ったりする日々を過ごすようになった1920年大正9年1月風邪を引いて実家帰り39度の高熱寝込んだ2月に寮に戻った次郎自己改造決意した哲学興味持ち、寮の友人たち自己解放について徹夜議論をした。宇賀矢野とはの積もる東山散策するなどした。映画マニア映画雑誌洋画評を書いていた飯島正の影響から、基次郎谷崎潤一郎の『女人神聖』や、ウォルト・ホイットマン『草の葉』読んだまた、飯島正浅野晃通じて作曲趣味の文丙の小山田嘉一(東京高師付属中学出身陸軍少将小山田勘二長男)とも親しくなり、音楽にもさらに本格的に傾倒していった。2月には、中谷孝雄室長逸見重雄喧嘩をして寮を出ていき、ほどなくして飯島正も寮を出て中谷と同じ下宿向い部屋移っていった。4月から寮を出た次郎は、上京区浄土寺小山町小山(現・左京区浄土寺小山町)の赤井方に下宿し実家から漱石全集持って来た。漱石心酔していた基次郎漱石全集のどこに何が書いてあるかをほぼ暗記していた。 この頃銀閣寺行き熊野若王子神社哲学の道)を散策したまた、新京極寺町行き、「江戸カフェ」の女給お初惚れ煙草吸って酒もおぼえた自分女にもてない怪異」な顔だということは諦めていたが、科学才能がなく凡庸であることで天と親を恨んだ。基次郎は、実家の店で慣れていたせいか撞球が得意で素人離れした腕前だった。また日曜毎に宝塚少女歌劇団を観に行っていた。 この頃中谷孝雄下宿行った折に、志賀直哉短編集『夜の光』を薦められ飯島正に「肺病なりたい肺病にならんと、ええ文学はでけへんぞ」と三条大橋の上叫んで胸を叩いたこともあった。谷崎潤一郎影響からか、友人の手紙に、〈梶井二郎〉などと署名した

※この「文学青年らとの出会い」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「文学青年らとの出会い」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。

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