文学青年らとの出会い
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1919年(大正8年)9月、三高理科甲類に入学した基次郎は、同校に一緒に進んだ北野中学時代の友人ら(宇賀康、中出丑三、矢野繁)と交遊。彼らの下宿を廻った。矢野が持っていた蓄音機でクラシックレコードをかけてヴァイオリンを弾き、みんなで楽譜を片手にオペラを歌うなど楽しい時を過ごした。 基次郎の下宿は長屋で狭く、重病人の老人がいたため、10月からは寄宿舎北寮第5室に入った。部屋は1階が学習室、2階が寝室となっており、同室には室長でラグビー部の2年生・逸見重雄、文乙(ドイツ語必修)の中谷孝雄(三重県立一中出身)と、文丙(フランス語必修)の飯島正がいて、文丙の浅野晃もしばしば部屋にやって来た。東京一中(現・東京都立日比谷高等学校)出身の飯島と浅野は同校で回覧雑誌『リラの花』を作っていた文芸仲間であった。 基次郎は中谷孝雄、飯島正、浅野晃の文学談義に耳を傾けていたが、難しくてついていけなかった。この頃、ロシア大歌劇団の来日公演があった。宇賀康は行ったが、券を買う金がない基次郎は仕方なく寮の中で『カルメン』や『ファウスト』を朗々と歌った。しかし11月頃から次第に憂鬱になり、授業に興味を失っていった基次郎は、学校をさぼって銀閣寺を散歩したり、美術展に行ったりする日々を過ごすようになった。 1920年(大正9年)1月に風邪を引いて実家に帰り、39度の高熱で寝込んだ。2月に寮に戻った基次郎は自己改造を決意した。哲学に興味を持ち、寮の友人たちと自己解放について徹夜で議論をした。宇賀や矢野とは雪の積もる東山を散策するなどした。映画マニアで映画雑誌に洋画評を書いていた飯島正の影響から、基次郎は谷崎潤一郎の『女人神聖』や、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』も読んだ。 また、飯島正や浅野晃を通じて、作曲趣味の文丙の小山田嘉一(東京の高師付属中学出身、陸軍少将小山田勘二の長男)とも親しくなり、音楽にもさらに本格的に傾倒していった。2月には、中谷孝雄が室長の逸見重雄と喧嘩をして寮を出ていき、ほどなくして飯島正も寮を出て、中谷と同じ下宿の向い部屋に移っていった。4月から寮を出た基次郎は、上京区浄土寺小山町小山(現・左京区浄土寺小山町)の赤井方に下宿し、実家から漱石全集を持って来た。漱石に心酔していた基次郎は漱石全集のどこに何が書いてあるかをほぼ暗記していた。 この頃も銀閣寺に行き、熊野若王子神社(哲学の道)を散策した。また、新京極や寺町に行き、「江戸カフェ」の女給・お初に惚れ、煙草を吸って酒もおぼえた。自分が女にもてない「怪異」な顔だということは諦めていたが、科学の才能がなく凡庸であることで天と親を恨んだ。基次郎は、実家の店で慣れていたせいか撞球が得意で素人離れした腕前だった。また日曜毎に宝塚少女歌劇団を観に行っていた。 この頃、中谷孝雄の下宿に行った折に、志賀直哉の短編集『夜の光』を薦められ、飯島正に「肺病になりたい。肺病にならんと、ええ文学はでけへんぞ」と三条大橋の上で叫んで胸を叩いたこともあった。谷崎潤一郎の影響からか、友人への手紙に、〈梶井潤二郎〉などと署名した。
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