しが‐なおや〔‐なほや〕【志賀直哉】
志賀直哉 しが なおや
宮城生まれ。小説家。東京の祖父母のもとで育ち、学習院高等科卒、東京帝国大学中退。明治43年(1910)、武者小路実篤、有島武郎らと『白樺』を創刊し、「網走まで」を発表。その後尾道、松江、京都などに居を移し、執筆を中断した時期を経て、『城の崎にて』(1917)、『和解』(1917)、『暗夜行路』(1921~1937)などを著す。「小説の神様」とよばれ、多くの作家に影響を与えた。 昭和24年(1949)文化勲章受章。
キーワード | 文学者 |
---|
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
志賀直哉
志賀直哉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 08:53 UTC 版)
志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
注釈
- ^ 当時、田中正造が政府や議会に鉱毒問題を繰り返し訴えていたが、これに呼応し、東京キリスト教青年会会館などで田中を支援する演説会が度々開かれるようになり、主催者は鉱毒地の視察を呼びかけた。内村も演説会に登壇した(阿川、上 1997, p. 106-107)。
- ^ 発表は『金の船』1920年(大正9年)1月号。
- ^ 発表は『中央文学』1918年(大正7年)3月号。
- ^ 門下の阿川弘之は、これを処女作としている(阿川、下 1994, p.376)。
- ^ 妹英子への手紙で、以下のように不満を漏らしている。「戦争初めはそれ程でもなかつたが、段々不愉快になり、京都の師団団員で近所のものが大分とられ三十越した知つてゐる人などがとられ出すと、非常に重苦しくなり閉口した…『石原莞爾』といふ本を買つて来て少し読んだが、人生といふものが戦争だけのものであるといふ印象で甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものだ」(阿川、下 1994, p. 87)
- ^ シンガポール陥落に関しては谷崎潤一郎も『シンガポール陥落に際して』という文でそれを讃美していたが、その後の谷崎は『細雪』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなった。同様に直哉もシンガポール陥落後はほとんど沈黙していたため、戦後の「鈴木貫太郎」などで展開した戦争批判も敗戦による変節を示すものとは言えない。
- ^ 横捨身技の名人と言われた柔道家の永岡秀一十段のこと。
- ^ 1956年(昭和31年)5月3日に開催された第1回世界柔道選手権大会を受けて、1956年6月1日発行の雑誌『柔道』第27巻第6号に「世界柔道選手権を見て」を寄稿。1956年7月1日発行『柔道』第27巻第7号に「柔道の思ひ出」を寄稿している。
- ^ 以下の表に加え、内幸町において新築の家に転居、松江において最初に住んだ家から別の家に転居、我孫子時代に一時東京四谷の九里四郎の家を借りてそこに転居している。これらの転居と最初の石巻町の家を含めると「転居二十三回」となる(貴田 2015, pp. 153–154)。
- ^ 丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『日本語のために』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。
- ^ 三島由紀夫は「日本への信条」(愛媛新聞 1967年1月1日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。
- ^ 作中では武者小路は「M」として登場している。
出典
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 4.
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 104.
- ^ a b 阿川弘之『志賀直哉 上』p.26、岩波書店、1994年
- ^ 「年譜」、『現代日本文学大系34 志賀直哉 集』p.461、筑摩書房、1968年
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 6.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.42、岩波書店、1994年
- ^ 志賀直哉「少年の日の憶ひで」(『中央公論』1959年1月)ほか。
- ^ a b 「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』p.291、岩波文庫、2004年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.53、岩波書店、1994年
- ^ 「母の死と新しい母」(朱欒 1912年2月)。『小僧の神様・他十編』(岩波文庫、2002年)に所収
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.77-78、岩波書店、1994年
- ^ a b 「「歩く時この杖をつかうと志賀と一緒にいる気がする」(武者小路実篤)【漱石と明治人のことば212】」、『サライ』公式サイト、2017年7月31日。2018年2月1日閲覧
- ^ 「自転車」(新潮 1951年11月1日)、『ちくま日本文学021 志賀直哉』(ちくま文庫、2008年)に所収
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.97、岩波書店、1994年
- ^ 「内村鑑三先生の憶い出」(婦人公論 1941年3月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.90-91、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.155-157、岩波書店、1994年
- ^ 生井知子「志賀直哉年譜考 (3) : 明治二十七年から三十年まで」『同志社女子大学日本語日本文学』第20巻、京田辺、2008年6月、85-100頁、CRID 1390853649686341888、doi:10.15020/00001085、ISSN 0915-5058、2023年12月7日閲覧。
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.96-98、岩波書店、1994年
- ^ a b c d e f g h 「続創作余談」(改造 1938年6月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.99、岩波書店、1994年
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 16.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.206、岩波書店、1994年
- ^ a b c 「年譜」、『現代日本文学大系34 志賀直哉 集』p.462、筑摩書房、1968年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.93、岩波書店、1994年
- ^ 栗林 2016, pp. 34–35.
- ^ 「愛読書回顧」(向日葵 1947年1月1日)、『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 18.
- ^ a b c 新潮アルバム11 1984, p. 105.
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 17.
- ^ 貴田 2015, p. 156.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.161-162、岩波書店、1994年
- ^ a b c d 「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』p.292、岩波文庫、2004年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.181、岩波書店、1994年
- ^ a b c d 「創作余談」(改造 1938年6月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.182、岩波書店、1994年
- ^ 貴田 2015, p. 164.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.183、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.204-205、岩波書店、1994年
- ^ a b 「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』pp.292-293、岩波文庫、2004年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.212、岩波書店、1994年
- ^ 「「志賀直哉を育てた女性たち」 第三回企画展記念講演会 第52回面白白樺倶楽部開催報告」、白樺文学館公式ホームページ、2018年1月4日閲覧
- ^ a b 「志賀直哉について」 奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居、2018年1月23日閲覧
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.223、岩波書店、1994年
- ^ 新潮アルバム11 1984, p. 37.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.228-230、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.234-235、岩波書店、1994年
- ^ 「志賀直哉略年譜」、『暗夜行路 前篇』p.293、岩波文庫、2004年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.271-272、岩波書店、1994年
- ^ a b c d e f 新潮アルバム11 1984, p. 106.
- ^ 栗林 2016, p. 64.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.283、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.304、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.337、岩波書店、1994年
- ^ 阿川、上 1997, p. 403-407.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』pp.362-363、岩波書店、1994年
- ^ 『座右宝』序(1926年6月)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 「年譜」、『現代日本文学大系34 志賀直哉 集』p.465、筑摩書房、1968年
- ^ 「志賀直哉」 日本歴史巡り 大正時代、2018年1月19日閲覧
- ^ 阿川弘之「解説」、『暗夜行路 後篇』p.339、岩波文庫、2004年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.406、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』p.416、岩波書店、1994年
- ^ 阿川、下 1997, pp. 100–103.
- ^ 阿川、下 1997, pp. 104–108.
- ^ 阿川、下 1997, p. 117.
- ^ 阿川、下 1997, pp. 119–120.
- ^ 阿川、下 1997, pp. 125–131.
- ^ 広津和郎『続・年月のあしおと』68・豪徳寺と世田谷新町(講談社)
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』p.113、岩波書店、1994年
- ^ 中山昭彦、吉田司雄『機械=身体のポリティーク』pp.104-105、青弓社、2014年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』p.144、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』pp.191-194、岩波書店、1994年
- ^ 阿川、下 1997, pp. 273–286.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』pp.329-330、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』pp.336-341、岩波書店、1994年
- ^ 阿川、下 1997, p. 464-468.
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』p.161、東京堂出版、1997年
- ^ 阿川、下 1997, pp. 505–506.
- ^ 阿川、下 1997, p. 516.
- ^ 阿川、下 1997, pp. 499–501.
- ^ 阿川、下 1997, pp. 522–528.
- ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』p.108、原書房、2015年
- ^ “文庫・コレクション一覧”. 日本近代文学館. 2017年1月31日閲覧。
- ^ “志賀直哉の書簡など寄贈 約1万2千点が日本近代文学館に”. 産経ニュース (2016年3月4日). 2017年1月31日閲覧。
- ^ 阿川、下 1997, p. 531.
- ^ 編者「解説」、『志賀直哉随筆集』p.363、岩波文庫、1995年。編者高橋英夫も作家論がある。
- ^ 芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」(改造 1927年4月号-8月号)。『侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫、2003年)に所収
- ^ 菊池寛「志賀直哉氏の作品」『文芸往来』pp.151-159、アルス、1920年
- ^ 紅野敏郎「解説」、『小僧の神様・他十篇』p.226、岩波文庫、2002年
- ^ 加賀乙彦「一枚の写真―遠い遠い親戚」(新潮アルバム11 1984, pp. 100–101)
- ^ 阿川、下 1997, pp.314.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 356–360.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 370–371.
- ^ 阿川、上 1997, p. 87.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 303–304.
- ^ 田村茂『田村茂の写真人生』(初版)新日本出版社、1986年、116-117頁。ISBN 4406013695。
- ^ 阿川、上 1997, p. 113.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』p.299、岩波書店、1994年
- ^ 貴田 2015, p. 3.
- ^ 貴田 2015, p. 115.
- ^ 貴田 2015, p. 273.
- ^ 貴田 2015, p. 360.
- ^ 貴田 2015, p. 395.
- ^ 貴田 2015, p. 416.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』p.308、岩波書店、1994年
- ^ 奈良いまは昔, p. 167-168.
- ^ 村田直樹. “柔道の国際化”. 日本武道館. 2019年7月14日閲覧。
- ^ 『志賀直哉全集 第九巻』P.317-321「柔道の思ひ出」
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 15頁。
- ^ 阿川、下 1997, pp. 196–204.
- ^ 阿川、下 1997, pp. 216–218.
- ^ 阿川、上 1997, p. 180-185.
- ^ a b c d e f g 志賀直哉『和解』を読む第62回面白白樺倶楽部開催報告白樺文学館、2006
- ^ 阿川、上 1997, p. 315-316.
- ^ 阿川、上 1997, p. 77.
- ^ a b 志賀直哉年譜考 (一)明治十五年まで生井知子、同志社女子大学日本語日本文学 巻18、2006-06-30
- ^ 阿川、上 1997, pp. 121‐130.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 35‐37.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 63–67.
- ^ 阿川、上 1997, p. 69.
- ^ 阿川、上 1997, p. 67.
- ^ 阿川、上 1997, p. 319.
- ^ 阿川、上 1997, p. 482.
- ^ 阿川、上 1997, p. 503.
- ^ 明治初期日本数学界における伝統数学と西洋数学の競争 : 東京数学会社から東京数学物理学会への転換を中心に 薩日娜 東京大学教養学部哲学・科学史部会 哲学・科学史論叢 9巻2007-01-31
- ^ 阿川、上 1997, pp. 490–508.
- ^ 阿川、下 1997, p. 112-114.
- ^ 阿川、上 1997, p. 234.
- ^ 阿川、上 1997, p. 233.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 258–259.
- ^ 阿川、上 1997, p. 214.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 277–281.
- ^ 沿革国立音楽大学
- ^ 阿川、上 1997, pp. 281–285.
- ^ 弦巻克二, 吉川仁子「池田小菊関連書簡 -志賀直哉未発表書簡を含めて-」『叙説』第33号、奈良女子大学文学部、2006年3月、244-267頁、CRID 1571135652817859712、hdl:10935/67、ISSN 0386-359X、NAID 120006656822。
- ^ 阿川、上 1997, p. 285.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 286–289.
- ^ a b 阿川、上 1997, pp. 289–294.
- ^ “【おくやみ】志賀直吉さん 作家志賀直哉の子息”. 東京新聞 (2019年6月11日). 2019年6月11日閲覧。
- ^ 阿川、上 1997, pp. 300–305.
- ^ 阿川、上 1997, pp. 305–312.
- ^ 『和解』(1917年10月)。『和解』(新潮文庫、1991年)に所収
- ^ 「書籍と風景と色と?」『時事新報』大正2年7月7日
- ^ 「文壇のこのごろ」『大阪朝日新聞』大正4年10月11日
- ^ a b 長尾剛『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 (朝日新聞出版、2018年)
- ^ 細川書店版「網走まで」あとがき。昭和22年7月
- ^ 阿川、上 1997, p. 350.
- ^ 「沓掛にて―芥川君のこと―」(中央公論 1927年9月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 貴田 2015, pp. 445–446.
- ^ 貴田 2015, pp. 374–377.
- ^ 貴田 2015, p. 381.
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』p.221、岩波書店、1994年
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 下』p.375、岩波書店、1994年
- ^ 阿川、上 1997, pp. 516–517.
- ^ 阿川、上 1997, p. 468-471.
- ^ “年譜”. 有限会社ゆとり・多喜二ライブラリー. 2018年1月22日閲覧。
- ^ 津軽青空文庫、2018年2月8日閲覧。
- ^ 阿川、上 1997, p. 85-86.
- ^ 「太宰治の死」(文芸 1948年10月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
- ^ 阿川、下 1997, p. 181-187.
- ^ 阿川、下 1997, p. 254.
志賀直哉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
小説家。三島は18歳の時に徳川義恭と共に志賀宅を初訪問したが、志賀の印象を〈我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました〉、〈仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました〉と清水文雄に報告している。三島は、志賀が敗戦直後に日本語を廃止して国語をフランス語にしたらどうかと発言したことに呆れ蔑んだ。
※この「志賀直哉」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「志賀直哉」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。
「志賀直哉」の例文・使い方・用例・文例
志賀直哉と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 志賀直哉のページへのリンク