日劇ダンシングチーム
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日劇ダンシングチーム(にちげきダンシングチーム)とは、1936年1月13日に日本劇場でデビューした日本の舞踊集団。略称「NDT」。
1977年4月24日に定期公演を終了、1981年2月15日、日本劇場の閉館とともに解散。
黒澤明監督『隠し砦の三悪人』、本多猪四郎監督『モスラ』などの東宝映画やホームグラウンドである日劇で開催された日劇ウエスタンカーニバルにも出演した。
沿革

- 1935年9月、東宝傘下となった日本劇場でショウ・ダンサーを募集。秦豊吉の下にレッスンが始まる。
- 1936年1月13日からの演目「ジャズとダンス」として、初公演。
- 1936年6月11日から6月30日の第4回公演から初めて「日劇ダンシングチーム」を名乗る。
- 1938年8月、来日した「ヒトラーユーゲント」の代表者30名のための歓迎公演[1]。
- 1940年から1945年までは東宝舞踊隊と名乗る。泰國舞踏、朝鮮バレーなども演目に含むようになる。
- 1941年11月26日から12月19日、東宝慰問隊の一団に参加して、広東や海南島、インドシナ(仏印)など訪れ、1日数回の慰問公演を精力的にこなした[2]。
- 1943年1月14日公開の映画『阿片戦争』、同年4月1日公開の映画『兵六夢物語』に東宝舞踏隊として出演。
- 1944年3月1日、政府によって公演停止命令。
- 1945年12月、日劇ダンシングチームとして公演再開。
- 1947年から翌年にかけての東宝争議にも有志が参加[3]。
- 1948年4月22日、会社側が日本映画演劇労働組合(日映演)組合員の日劇ダンシングチームの4名との契約を解除[4]。7月5日の衆議院労働委員会で日劇ダンシングチームの5人の日映演組合員が組合活動を理由に解雇されたこと、その他の組合員については、脱退声明書に署名捺印させて、日映演を脱退させたことが報告された[5]。
- 1950年5月7日、大量解雇を含む再建案のなかに日劇ダンシングチームの独立採算制の実施が示された[6]。
- 1958年12月23日の衆議院大蔵委員会で、入場税の問題に関連して日本社会党の竹谷源太郎議員が「日劇ダンシング・チームというのは毎月百万ずつの赤字を出している」と報告[7]。
- 1977年4月24日に最終公演を開いた。
- 1981年2月15日、「日本劇場 さよなら公演サヨナラ日劇フェスティバル」の最終日出演をもって、日劇ダンシングチームが解散。
出身者
関連人物
出典
外部リンク
- 昭和レビュー狂時代 - ウェイバックマシン(2004年12月27日アーカイブ分) 戦前~NDTの膨大な資料を紹介。リンク切れ
- 昭和の日劇ダンシングチ―ム舞台ALBUM上記の派生サイト。
日劇ダンシングチーム
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「日劇ダンシングチーム」も参照 毎年、春・夏・秋の三大おどりを見せ物として大好評を博していた。しかし昭和50年代に入り、テレビの普及に加え娯楽の多様化、さらには宝塚歌劇団のようにダンスと劇の2部構成ではなく、レヴューが主な見せ物だったためファンの世代交代がままならず、団体客でも入らないと客席はガラガラという状態へと陥った。なんとか乗り切るためにミュージカルなども行われたが、時勢には勝てず、事態が好転することなく解散へと向かった。 このためレヴュー公演は、1977年をもって終了している。
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