日劇ミュージックホールのダンサーへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 03:57 UTC 版)
「武山真理子」の記事における「日劇ミュージックホールのダンサーへ」の解説
次第に独立して仕事を取れるまでになっていた1957年(昭和32年)の10月、25歳の時、丸尾長顕から日劇ミュージックホールへスカウトされる。最初は裸になって踊るのは抵抗があって何度も断るが、うまい具合に説き伏せられてしまい、京峰マリの芸名でデビューすることとなる。当時、東京は850万人の人口を抱える世界一の都市になって、銀座はキャバレー文化が横溢しており、真理子たちダンサーは夜、日劇の公演が終わると、そのまま化粧も落とさずにハイヤーを貸し切ってキャバレーやクラブを一晩に3、4件もはしごして回るというアルバイトもした。一つの店で2曲ほど踊っては次の店へ移動して踊るという目まぐるしい生活を送って稼ぎまくり、一流企業の重役並みの収入を得た。日劇ではコントも演じ、トニー谷とも共演している。しかし当時、裸の殿堂とも言われ、トップレスショー等もしていた日劇ミュージックホールの出演が父にばれ、勘当状態になった。 1961年(昭和36年)、28歳の時、知り合った実業家の客との間に長男を儲け結婚し、翌年、日劇ミュージックホールを退団する。 1962年(昭和37年)3月、父を亡くし、それまで父が発行していた新聞、『観光物産新聞』を存続させるべく経営を引き継ぐ。本社は板橋区で銀座に編集部を構えた、社員は5人ほどの会社だった。真理子はいつかは駅売りにまで持って行くという目標を掲げて奔走したが、多忙となり離婚する。子供は母親に預け、会社を支える資金稼ぎのために、社長業の合間をぬって、地方へ踊り子として巡業を始めた。ストリッパーと同じ舞台にも立ったが、「元日劇ミュージックホールのダンサー」と言う肩書きがものを言い、衣装は着けたままの踊りで見せることが出来た。 その後、新聞の方は休刊とし、ギャラのよさに惹かれて1964年(昭和39年)1月、31歳で香港、バンコク、シンガポール、クアラルンプールという9か月にも及ぶ東南アジアのクラブやホテルでの長期巡礼の旅に出た。日本に帰って来た時は『1964年東京オリンピック』が始まろうとしていた時だった。この時の経験で海外公演のうまみを知った真理子は、たびたび、東南アジアへ巡業へ出ることになる。この時期、藤田まこと主演の映画、『一発かましたれ』(1965年6月5日公開、東映)にナイトクラブのダンサー役で出演している。
※この「日劇ミュージックホールのダンサーへ」の解説は、「武山真理子」の解説の一部です。
「日劇ミュージックホールのダンサーへ」を含む「武山真理子」の記事については、「武山真理子」の概要を参照ください。
- 日劇ミュージックホールのダンサーへのページへのリンク