日加関係史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 08:36 UTC 版)
日本とカナダが最初に出会ったのは、カナダの冒険家ラナルド・マクドナルドが実母であるインディアンの祖先が日本であると信じて1845年に北海道へ密入国したときとされる。1873年には、二人のカナダ人宣教師が家族とともに横浜に来航し、同じころ、和歌山出身の大工・工藤儀兵衛がブリティッシュ・コロンビアの漁港スティーブストンに住みついたという。一部のカナダ系日本人の間では、後に両国が相互に設置した常設の公使館に先駆けて、非公式な接触があった。カナダに渡った最初期の日本人の一人に永野万蔵がおり、1877年にブリティッシュコロンビア州ニューウェストミンスターに上陸したとの記録がある。 初期の日本人移民は漁業労働者であったが、勤勉でよく働く日本人移民に対してカナダ人は反感と移民増加への警戒感を持ち、カナダ政府は日本人に移民制限を課した。日本政府はこれを受け入れたが、以降も日本人に対する偏見は長く続き、日系カナダ人を苦しめ続けた。 明治時代に日本に派遣されたカナダの使節団は日本の教育制度の近代化に影響を与え、西洋の伝統的な基本思想を教育分野に導入する過程で効果的な役割を果たした。カナダ人のジョージ・コクランは同志社大学、同じくデイヴィッドソン・マクドナルドは青山学院大学の創設にそれぞれ関与した。 1887年、横浜とバンクーバーを結ぶ蒸気船の航路が開通し、カナダ太平洋鉄道の海運部門が定期便を運航した[6]。これらの航路に就いたカナダの船舶の一つにエンプレス・オーストラリア(英語版)があり、艦長のサミュエル・ロビンソンは1923年の関東大震災において救助活動を行ったことで国際的に称賛を浴びた。 1904年から1905年まで、王立カナダ野戦砲兵隊のハーバート・シリル・サッカー少将は日露戦争中、駐在武官として旧日本陸軍に随行した。サッカー少将は日露戦争中の功績を称えて日本政府から勲三等瑞宝章に叙されたほか、同戦争中の軍功により明治三十七八年従軍記章も授与されている。
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