日勝映画館の時代とは? わかりやすく解説

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日勝映画館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:46 UTC 版)

池袋日勝映画劇場」の記事における「日勝映画館の時代」の解説

1937年昭和12年)、東京府東京市豊島区池袋町1丁目743番地現在の東京都豊島区東池袋1丁目411号)に池袋日勝映画館として開館する同地は、池袋駅東口から北東伸びる明治通り沿いに面しており、通り反対側(池袋742番地現在の東池袋1丁目8番1号、のちの栄真パーキング)も同館を経営した簱興行の簱栄吉所有であった同年4月1日には東京市電池袋線開通しており、同館の目の前市電走っていた。当時の同館の支配人は簱勇治、観客定員数は685であった。 簱栄吉は、1928年昭和3年1月簱興行設立した人物で、すでに平井松竹館(平井町2丁目975番地)、亀戸昭和館亀戸町3丁目257番地、のちの亀戸日勝映画劇場)および亀戸松竹館亀戸町3丁目168番地)、五反田劇場品川区五反田1丁目261番地)を経営しており、1940年昭和15年)代までには、江戸川区小松川電気館小松川3丁目53番地)、小岩松竹館(のちの小岩スカラ座小岩町3丁目1861番地)、城東区現在の江東区)に三光館(南砂町1丁目285番地)、神奈川県横浜市中区中島常設館共進町3丁目55番地)、千葉県市川市市川映画館市川2丁目3057番地)と、同館を含めて10館の映画館経営していた。 1942年昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版によれば、同館は「紅系一番館」に指定されていた。当時広告によれば同年12月3日には山本嘉次郎監督による東宝映画作品『ハワイ・マレー沖海戦』日本劇場浅草大勝館浅草富士館江東劇場と共にロードショー公開している。田中純一郎および清水晶によれば大戦末期1944年昭和19年)末には、勤労者本位紅系白系系統組み替えており、同館は、浅草富士館本所映画劇場江東劇場向島東宝映画劇場、五ノ電気館芝園館、荏原大映劇場五反田劇場牛込東宝映画劇場中野映画劇場、井ノ頭会館蒲田常設館蒲田電気館大森松竹映画劇場とともに白系一番館」に変わった

※この「日勝映画館の時代」の解説は、「池袋日勝映画劇場」の解説の一部です。
「日勝映画館の時代」を含む「池袋日勝映画劇場」の記事については、「池袋日勝映画劇場」の概要を参照ください。

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