日勝映画館の時代
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「池袋日勝映画劇場」の記事における「日勝映画館の時代」の解説
1937年(昭和12年)、東京府東京市豊島区池袋町1丁目743番地(現在の東京都豊島区東池袋1丁目41番1号)に池袋日勝映画館として開館する。同地は、池袋駅東口から北東に伸びる明治通り沿いに面しており、通りの反対側(池袋町742番地、現在の東池袋1丁目8番1号、のちの栄真パーキング)も同館を経営した簱興行の簱栄吉の所有であった。同年4月1日には東京市電池袋線が開通しており、同館の目の前を市電が走っていた。当時の同館の支配人は簱勇治、観客定員数は685名であった。 簱栄吉は、1928年(昭和3年)1月に簱興行を設立した人物で、すでに平井松竹館(平井町2丁目975番地)、亀戸昭和館(亀戸町3丁目257番地、のちの亀戸日勝映画劇場)および亀戸松竹館(亀戸町3丁目168番地)、五反田劇場(品川区五反田1丁目261番地)を経営しており、1940年(昭和15年)代までには、江戸川区に小松川電気館(小松川3丁目53番地)、小岩松竹館(のちの小岩スカラ座、小岩町3丁目1861番地)、城東区(現在の江東区)に三光館(南砂町1丁目285番地)、神奈川県横浜市中区に中島常設館(共進町3丁目55番地)、千葉県市川市に市川映画館(市川2丁目3057番地)と、同館を含めて10館の映画館を経営していた。 1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館は「紅系一番館」に指定されていた。当時の広告によれば、同年12月3日には山本嘉次郎監督による東宝映画作品『ハワイ・マレー沖海戦』を日本劇場、浅草大勝館、浅草富士館、江東劇場等と共にロードショー公開している。田中純一郎および清水晶によれば、大戦末期の1944年(昭和19年)末には、勤労者本位に紅系・白系の系統を組み替えており、同館は、浅草富士館、本所映画劇場、江東劇場、向島東宝映画劇場、五ノ橋電気館、芝園館、荏原大映劇場、五反田劇場、牛込東宝映画劇場、中野映画劇場、井ノ頭会館、蒲田常設館、蒲田電気館、大森松竹映画劇場等とともに「白系一番館」に変わった。
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